使徒17:16-34

アテネでの伝道(2)

 

 アテネでのパウロは、2回目の学びになります。マケドニア州のテサロニケ等の騒動(暴動)から逃れるため、パウロはシラスやテモテを残したまま、パウロはアテネに連れてこられました。パウロ一向に対して暴動を起こしたのは、ユダヤ人です。シラスとテモテは、パウロが去った後の教会のための指示を受けていましたから、アテネに到着するのはまだ先のことだったと思われます。なぜなら、マケドニアでの伝道は、成功したようではありましたが、パウロは追われてしまいました。指導者がいなくなったマケドニア州の教会は、たちまち存続の危機を迎えたと言えます。だからと言って、パウロがマケドニアに戻れば、また同じ騒ぎが起きてしまいますから、このアテネで伝道するか?ほかの土地に移動するかの選択しかありません。アテネは、かつてはヨーロッパ第一の都市でしたが、ローマ帝国ができて、第二の都市となっています。しかし、学問的な面ではアテネこそが第一の都市です。そういう意味で、ギリシャ第2の都市であるテサロニケを追われたからには、アテネで挽回するのが自然な選択です。パウロも、アテネでの伝道を試みました。しかし、アテネでの滞在は1週間ほどで終え、コリントに向かいます。使徒言行録を書いたルカは、何事もなかったように書いていますが、パウロのアテネ伝道は大失敗だったのです。

1.パウロのすれ違い

  アテネに偶像が多いと言って、パウロは憤慨しますが、そのようなことを怒ることも討論することも、パウロの独りよがりだと言ってよいでしょう。ユダヤ人とは、ユダヤの神を信じる者であり、神をあがめる者とは異邦人(ギリシャ人)でユダヤ人と一緒に礼拝する者です。「偶像」を禁止する掟の下にいる人と言う共通点はありますが、異教徒が作った偶像をとやかく言う立場にはありません。広場では居合わせた人と偶像について議論したとありますが、神々の偶像を作る方が世界の一般常識でありますから、パウロの話を聞くことは聞いても、何が言いたいのか理解されなかったと思われます。また、福音の伝道についても、「外国の神々の宣伝」とか「新しい教え」という意味で、アテネの人々は興味を持ちましたが、これは新しもの好きであるアテネの人々のいわば娯楽でありました。伝道しようとしているパウロと、その福音を話のネタにしたいアテネの人々の間には、すれ違いが起こっていたのです。神様を求めて集まってくる人々への伝道と、エンターテイメントを求めている人々への伝道では、成果が大きく違うのはやむを得ないことです。

2.アレオパゴスの丘での伝道

 ルカは、何人か信じる人が出たとわざわざ書いています。この記事によって、アテネ伝道が大失敗におわったことを和らげていますが、パウロが舌足らずなこともあり、理論的に考えるアテネの学者たちを相手に、これ以上パウロの話を聞く価値が無いと判断されてしまったのです。その証拠に、牢に入れられることもなく、暴動も起きませんでした。影響力がほぼなかったわけです。それでも少ないながら、信じる者が出たと、ルカは付け加えました。


 パウロには、偶像の神々であふれているアテネで、偶像がないユダヤ教の神を説明するのに苦労したようです。 たまたま見つけた「『知られざる神に』と刻まれている祭壇」を取り上げました。あなた方が拝んでいる神々の一つが、ユダヤ教の神だ・・・という意味にしか聞こえないので、これは問題発言です。それだけ無理をして、アテネの人が受け入れているところから神様のことを説明をしました。そして、すぐ矛盾したことを言います。


 『世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。』

導入で言った「神々の一つ」であるならば、万物を作った神ではありえません。

また、こうも言っています。

 『この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。』

このやや自慢げの言葉は、ほとんど何を言いたいのか分からないのです。神々が神殿に住んでいないのは、当たり前だからです。(神殿は、神々を祭り、礼拝する場所です)


これらの言葉を一字一句を追わずとも、パウロの失敗がわかります。パウロは論理的な思考を重要視する人々に向かって、さも正しいように「持論」を展開しているにすぎません。また、その「持論」にはほとんど根拠がありません。これ以上、パウロの論説について扱わずとも、パウロの何が良くなかったかは、わかると思います。

 それは、第一に「神様のことを理論的に説明しようとした」事です。神様への信仰は、理論ではありません。神様の存在を証明することはできないのです。しかし、神様を信じていることを説明することはできます。それは、神様が寄り添ってくれていると感じた私たちの証(信仰告白)となります。

  そして、パウロはイエス様の復活の事を話しました。死者の復活などとは、とてもアテネの学者は聞くに堪えなかったと思われます。なぜなら、私たちイエス様の復活を信じている者でも、イエス様への信仰があってこそ信じられる事だからです。死者の復活が最後のきっかけになりましたが、最初からかみ合っていないパウロの論説は、アテネの人々から止められてしましました。結果的に、パウロはアテネの学者たちと会話がかみ合うように挑みましたが、成果がほぼなかったのです。しかし、この失敗がコリントでの福音伝道へと導くのです。