使徒1:1-2

著者と成立

 

1.著者

使徒言行録は、ルカによる福音書とセットになっています。ですから、著者はルカという事になりますが、ルカがどういう人だったかなどは、わかりません。ルカによる福音書にも使徒言行録にも、ルカ自身のことが書かれていないからです。使徒言行録に、「私たち」と言う言葉が出てきますので、パウロと同行していただろうという事がわかる以外には、聖書には、手掛かりが3か所しかありません。

・コロサイ『4:14 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。』

・テモテへの手紙二『4:11 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。』

・フィレモンへの手紙『1:24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。』

パウロの手紙を実際に書いた(代筆した)のは、この協力者たちと考えられています。パウロは目が悪かったと思われ、大きな字しか書けず、代筆してもらった手紙の最後にパウロ自身がサインしたようです。

(ガラテア『6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。』)

 

また、2つの文書とも、テオフィロス「Θεόφιλος」(ギリシア語で「神の友」という意味)に献呈されていて、献呈の言葉を読んでみると、言い伝えと文献を良く整理してまとめ上げたことがわかります。

ルカ『◆献呈の言葉 1:1‐2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。』


この経緯からすると、ルカはイエス様の伝承を収集するだけではなく、パウロの書簡を保管する必要があったのだろうと思われます。ですから、パウロ書簡がこれだけ現在も残っているのは、ルカとテオフィロスの功績ではないかとも言えます。また、テオフィロスは誰だったのかは、分かっていません。たぶん最高「ラティストス κράτιστος」のテオフィロスとルカによる福音書には書かれていますので、ローマの最上級の人だった可能性があります。

(使徒24:2‐3には、総督フェリクスの名前に、この「クラティストス κράτιστος」が使われています。訳は「フェリクス閣下」となっています。)

少し史実を調べてみると、当時の大祭司の一人、ローマのシリア総督の弟がテオフィロスだったそうですが、その人物かどうかはわかりません。むしろ、「神の友」というあだ名を当てられた、ローマの要人がいたと考えた方が良いでしょう。

一方で、使徒言行録の「はしがき」は、あまりにも素気がありません。テオフィロスは、2巻目ができた時にはすでにクリスチャンになっていたので、あまり仰々しく書く必要が無かったと、私は想像しています。しかし、2巻一緒に献呈されたのだとしたら、献呈の言葉は無くて「続編ですよ」と言う趣旨で、簡略にしたのかもしれません。

 

2.成立

 使徒言行録は、ルカによる福音書と同時に書かれたとしても、マルコによる福音書が成立したとされる紀元70年代に成立したとは考えられていません。少なくとも紀元80年代以降だと考えられています。

ルカ『21:24異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられる』とイエス様が預言していますが、そのこと(ローマ・ユダヤ戦争)が起こって神殿が崩壊したのは紀元70年のことです。この記事は、実際に目撃したことを書かれた可能性があります。

また、ヨセフスの書いたユダヤ戦記とユダヤ古代誌には、使徒言行録と似た記事があります。

どうも2つのヨセフスの記事を編集したようなところがあります。1つはカイザリアでアグリッパ王を悪く言う人物を呼び出して、和解した話題。そして、もう一つは、アグリッパ王が劇場で倒れて死んだ話題です。アグリッパ王が、腹を立てていたことと、和解した事、そして急死したことは事実です。それを、脚色していると考えた方が良いです。しかし、カイザリアに劇場を建てて、そこに大勢を招待しての急死ですから、褒めそやされていた最中の死であることには、変わりがありません。また、アグリッパ王は、カイサルの神殿を作って礼拝をしていましたし、ユダの国や周辺の領地に重税をかけていますから、本心でアグリッパ王を褒めた人はいなかったことも変わりがありません。その、使徒言行録の記事は以下の通りです。

 

使徒『12:20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。12:21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、12:22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。

12:23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。』

 

もし、その説が正しいのであれば、使徒言行録の成立は、紀元100年あたりが妥当なのでしょう。