Ⅰヨハネ4:1-6

 真実の霊

 2022年 5月 8日 主日礼拝

愛にとどまる

聖書 ヨハネの手紙一 4:13-21           

 おはようございます。今日は、5月の第二週なので母の日ですが、もうひとつ、歴史的には、1945年5月7日にドイツが第二次世界大戦の降伏文書に調印して、5月8日をもってヨーロッパの全ての戦闘が終わった記念日です。この原稿は4月5日に書いていますが、ウクライナのブチャでロシア軍による大量殺人があったとの報道をうけて、ものすごくショックでしたし、今もその様な酷い事態が続いています。そして、祈る以外何もできないことにもどかしさを感じています。また、これ以上犠牲者を出さないためには、世界中のリーダーたちが、あらゆる努力をしなければなりません。それから、戦争犯罪についても、二度と同じことを起こすことが無いように、その責任を問わなければなりません。これは、人道的な立場をとる世界共通の価値観だと思われます。しかし、現実に人道的な問題が起きてしまっています。どこに原因があるのでしょうか? たくさんの疑問があるはずです。例えば、なぜ、キリスト教国が侵略をするのか? なぜ、力づくで相手を屈服させようとするのか?なぜ、民間人を狙うのか? なぜ、民間人を避難させないのか? なぜ、荒唐無稽なウソと思われることを言うのか?などです。今とりあげました、なぜ?と思わせる行動は、すべて「信頼できない国」であることを宣伝しているような事なので、本来は隠したいはずなのですが、どういうわけかわかりません。むしろ、堂々と行われてしまっています。つまり、「信頼できる国」になるよりも、相手をつぶして「恐怖によって支配する」ことが優先されているように見えます。しかし、このやり方をする人には、信頼しあえる友達は一人もいなくなってしまうのだろうなと思います。

 そして、本題です。「神様がおられるのに・・・」どうしてこのような侵略戦争が起こるのでしょうか? という疑問です。神学者によっては、「神様は人間の世界に直接手を下すことはやめられた」等と言います。しかし、そういう説明では、「神様が裁かれないのだから、世界を正すのは、私たちの善意だけ」と言った、重い十字架を負わさせられた気分になります。そこで、今日の聖書から、ヨハネは何を語っているのかをお話したいと思います。

 まずこの手紙は、使徒ヨハネがエフェソにいた(AD90年)ころに書いたとされています。この時代の教会は、混乱していました。ちょうどこのころ、キリスト教とユダヤ教が分かれ、そしてキリスト教の教えが固まってきたときでした。ですから、いろんな教えを持ち込む人がいて、どの教えが正しいのかわからなくなって、混乱をきたしました。つまり、キリスト教とは言えない教えが強い影響力を持っていたわけです。そうなってくると、正当な教えと異端の教えの違いを明らかにしたうえで、異端をとり除く必要が出てきます。そんな背景があって、ヨハネは、正統的な教えと異端とを区別をする目的で、このヨハネの手紙一を書いています。そういうわけで、この書簡を読むことによって、私たちの信仰を吟味することが出来るのだとます。

 最初に、この文章で始まります。

『4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。』

 神様は、霊であります。ですから、御自分の霊を分け与えたと言う事は、神様の中に私たちが居る事になります。それは、同時に、私たちの中に神様が居る事でもあります。私たちには、いつも神様と一緒なのです。どんな時でも神様は私たちを離れることはありません。神様は、こんな大変なときにどこで、何をされているのか?という問いに対する、答えがここにあります。

「神様はどんな時でも、私たちと共にあって、私たちに働きかけ続けているのです」

 そして、イエス様のことです。ヨハネは、イエス様の弟子としてイエス様のそばにいました。そして、十字架の出来事を見て、そして復活したイエス様に会うことによって、イエス様が神様が遣わされた救い主であることを信じ、そのことを証ししていました。ここでヨハネは、私たちとは何者であるかを書きます。それは、『イエスが神の子であることを公に言い表す人』をさします。ヨハネは、イエス様を神の子と証しする人が、私たちつまり、クリスチャンであると説明しています。この説明が必要だったのは、教会の内外に「イエスは神の子ではない」とか「イエスは預言者だ」と考えている人がいたからです。もちろん、この考えではイエス様は人だと言う事になりますから、キリスト教とは言えないわけです。

 私たちに神様の霊が分け与えられたその理由は、ただ一つ「イエス様は神の子である」と証をしたからです。その証だけによって、私たちは神様の中に

入りました。そして神様は私たちの中にいるのです。

 ヨハネは、愛について良く宣教したようです。今日の所も神様と愛についてこのように語っています。

『4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます』

 最初にあったのは、神様が私たちを愛してくださっているという事実です。私たちはその神様の愛に気づいています。そして、これからも愛されるだろうと信じています。そして、ヨハネは『神は愛です』と言い切ります。しかも、この愛はアガペー(αγάπη)です。神様の人間に対する愛、そして無限の愛がアガペーですから、私たちの中には無限の愛が同居しているはずです。なぜなら、神様が愛そのものなので、私たちに入った神様の霊も愛だからです。この無限の愛と私たちが共にあることは、ただ一つのことで保証されています。「イエス様は神の子であると証する。」事によって、私たちの中には、神様の無限の愛が共にいるのです。ですから、裁きの時が来ても心配はありません。すでに私たちの中には、神様の霊が、そして神様の無限の愛と私たちは共にいるからです。

イエス様も、十字架にかけられたとき、神様の霊が、そして神様の無限の愛が共にいました。そして、イエス様は復活されたのです。わたしたちの中に神様が共にいる限り、イエス様のように復活する時が来るのです。だから、私たちは、「イエス様は神の子であると証する。」だけで、神様が、そして愛が私たちに入り込むので、もう心配する必要はなくなってしまうのです。

 

 それでも、私たちの心の中には、心配も同居しています。決して心配することは悪いことではないのですが、そこには神様の愛が必要です。なぜならば、強い心配があると、不安や恐怖をともなうこともあるからです。不安や恐怖は、失望を生み、時として行き過ぎた防御、そして攻撃を生みます。その攻撃は、暴力や誹謗中傷として、かかわる人々の不安と恐怖を生むという負の連鎖(デビル・スパイラル)が出来てしまいます。だから、そうならないように、不安や恐怖を抱かないように、私たちの中に神様の無限の愛が働いているのです。

ヨハネはこう続けます。

 『4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。』

 「愛には恐れがない」この愛は、神様の無限の愛であるアガペーです。そしてここに「恐れる」とある言葉は、「パニックを起こすような恐怖」を指しています。愛があれば、何の心配もないとはなりませんが、「パニックを起こすような恐怖」を愛は締め出します。恐怖を締め出すには、神様に信頼をすることだけで大丈夫です。神様に信頼をしているならば、神様の愛による導きとその結果に心配する必要が無いからです。ですから神様の愛は、私たちの恐れを完全に取り除いてくださいます。そして、神様の愛を恐れる者には、神様の愛はなかなか入れる機会が無いので、十分に働きません。そして、神様の愛を恐れる者には、平安はやってきません。なぜなら、神様の裁きを恐れているがために、神様の愛を受け入れていないからです。

 リビングバイブルが、この部分を良く訳しているので、紹介します。

『4:18ですから、私たちを心から愛してくださる方を、どうして恐れる必要がありましょう。もし恐れがあるなら、それは、神が私たちに何をなさるのか不安をいだいているからです。神の完全な愛は、そんな恐れをすべて取り除きます。恐れている人は、神の愛をまだ十分理解していないのです。』

 

 神様は、私たちを無条件にそして、神様が先に愛してくださいました。そして、これからも私たちを愛してくださいます。神様は、私たちが神様を愛したから、私たちを愛したのではありません。私たちが神様を愛していないときでさえも、神様は私たちを愛してくださっていました。この神様の愛がわかったならば、私たちは、神様を愛することができるようになるのです。神様が無条件に私たちを愛してくれたからこそ、私たちは神様を無条件に愛し返すことができるのです。この私たちの神様への愛もアガペー、神様の愛です。

 

 ここで、この言葉を考えてみましょう。

『4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。』

これまで、お話ししてきた通り、神様の愛を受けたから、神様を愛している私たちは、神様が愛している兄弟を憎むことはできません。また、私たちは神様を愛する兄弟を愛します。もし、目に見える兄弟を愛さない者がいたならば、その人は神様を愛していないのです。神様は、無条件に愛してくださっているのに神様を愛し返していないのです。

 私たちは、目に見える者を愛することを通して、目に見えない神様を愛するわけですから、兄弟を愛さない者は、神様を愛しているとは言えないのです。

このことは、神様を愛しようとするならば、兄弟を愛するほかに、良い方法がないことを示します。ですから、「あなたの兄弟を愛しなさい」との掟は、神様から出た御命令なのです。

 

 「あなたの兄弟を愛しなさい」と、ヨハネがわざわざ書いているので、当時の教会での現実は、そうではなかったことが伺われます。もちろん人間ですから、完ぺきな人はいません。多少の衝突はあるでしょう。ところが、「兄弟を愛していない」と指摘していますから、決定的な対立があったのでしょう。「イエス様は神の子です」と証をしながら、神様の霊を、そして神様の愛を受け入れなくなった瞬間、私たちの中から愛の働きが抜け出していくのです。私たちは、そのようなことがあってはならないと考えますが、なかなかそうは思うようにならないのです。私たちは、人間ですから完ぺきではないのです。しかし、出来る事があります。イエス様に祈ることです。「イエス様、神様の掟を守れるようにしてください。」そうすれば、神様の愛は、いつも共にあるでしょう。人を愛することは、神様から与えられる力でありますから、一方的に神様からいただかなければ成り立ちません。イエス様に祈らなければ、「あなたの兄弟を愛しなさい」との掟を守ることはできないのです。ですから、みなさん。世界中の人が、「あなたの兄弟を愛しなさい」との掟を守ることができるように、とりなしの祈りをしてまいりましょう。