ヨブ記38:1-18

あなたを仰ぎ見ます

2021年 10月 24日 主日礼拝

あなたを仰ぎ見ます

聖書 ヨブ記 38:1-18         

 今週は待降節前9節となります。これから11月21日までの5週間は、「イエス様をこの世に降された神様のご計画」について中心に語っていきます。そして11月28日がアドベントですね。その大きなテーマに従って、今日はヨブ記からのみ言葉です。今の旧約聖書は、モーセ五書、歴史および物語、詩歌と教訓、預言(イザヤ書以降)の4部構成のなかにあって、ヨブ記は第3部「詩歌と教訓」の一番先に出てくる重要な記事です。この、ヨブ記が書かれた年代は明らかではありません。それでも、イスラエル特有の知恵文学であることから、割と新しい記事であることは間違いなく、紀元前3,4世紀ぐらいに書かれたと考えられています。

それでは、ヨブ記のあらすじをおさらいしてみましょう。

ヨブという「信仰深い」お金持ちが居ました。財産も多く、子供たちに恵まれ、幸福でした。

ある日、神様とサタンがヨブについて会話します。(サタン:悪魔、天使の一人)

 

神様が言います。「私の僕ヨブは信仰深い」

サタンは、それは神様が恵みをたくさん与えているからだと考え、このように言います。「ヨブが持っているもの全部を奪ったら神様を呪うようになります」

神様は、結局「ヨブを試してみては?」というサタンの提案を受け入れ、「ヨブの持っている物を奪う事を許しました。そのとき、命だけは奪わないようにサタンに念を押します。

 

サタンはヨブに害を与えます。結果、ヨブは財産を全部失って、子供も全部死にました。幸福な状況からの急な転落を経験したのです。死んだほうがましと思うに違いありません。しかし、ヨブはひどい目に合っている最中にも神様を信じていたのです。

『1:22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。』

そこでサタンは、ヨブを皮膚病にしてしまいました。

 

そこへ、ヨブの友人が3人訪ねてきます。変わり果てたヨブの姿に驚きました。ヨブは重い口を開いて、「生まれてこなければよかった」

3人の友人は、いろいろ言います。「神様は、善い行いには良いことで報いてくださり、悪い行いには懲らしめられる」という内容を入れ代わり立ち代わりヨブに言い聞かせたのです。つまり「やっぱりヨブは気が付かないうちに罪を犯したから、罰を受けているのだ」と主張するわけです。

しかしヨブは一貫していて、「悪いことはひとつもしていない」「この現状は不当だ」「神様とお話したい」でした。

 

4人で延々と議論していますと、エリフと言う名の人がやって来て、「やっぱりヨブが間違っている」と言います。簡単に言ってしまえばこれまでですが、ヨブが3人の友人とエリフとの間で繰り広げる論戦が、延々と続きますので、読み続けるのに結構たいへんです。

 

そして最後に登場するのは、神様です。砂漠の砂嵐の中から神様が現れます。そこからが、今日の聖書の箇所になります。神様の前に、ヨブは降参するしかありませんでした。すると、神様は受け入れて、ヨブに財産を回復させることを約束します。そしてヨブは、以前の倍の財産を得て、子供もできて、長生きしました。

 

このあらすじを見ますと、神様とサタンがヨブの信仰を試したことに端を発しています。そして、どんなことがあってもヨブは神様に罪を犯しませんでした。しかし、ヨブは神様と話をしたかったのです。私は罪を犯していないのに、なぜ神様はこんな仕打ちをするのですか? そういいたかったに違いありません。神様は、さぞかし困ったでしょう。「サタンの誘いに乗ってヨブを試していた」等と本当の事は、とても言えないですから。そして、今日の聖書の箇所のように、ヨブを説き伏せます。神様と人間の関係のそもそもの根源について、神様は語ったのでした。

場所は、「ウツ」と1:1に書かれています。ウツの町はアラビア地方にあります。また、ヨブはユダヤ人ではないと言われています。ヨブの3人の友人もユダヤ人から見たら異邦人(42:9)の様です。民族的には異邦人であっても、神を信じユダヤ教の習慣に従っている人々は、遠い異国で神様を信じ、神様に忠実な生活を送っていました。彼ら異邦人にとっては、ヨブのことがとても心配だったはずです。少ない仲間の一人であるヨブが酷い目に合ってしまったのです。ですから、本当に真剣に考えそしてヨブに罪があるのではと論争を続けていたのです。そして、その論争は限界になりました。『32:1~ヨブが自分は正しいと確信していたから~。』です。

 

『38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。』嵐とは、砂漠の嵐のことです。砂漠の嵐は、人も家畜も巻き込むので大変危険です。ヨブは地にはいつくばって、自分の身を守るので精一杯なはずです。そこに神様からの声が響いたのです。神様はヨブの「自分は正しい」との主張に答えたのではなく、あなたは一体何者なのかとヨブに問いました(38:2)。

神様がヨブに問いかけたことは、神様でなければ答えられないことばかりです。

『38:4 わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。38:5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。38:6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。』

神様が天地を創造された時、人間はそこにいませんでした。また、どういう手順で天地を創造したのかもヨブばかりか人間は誰も知らないのです。答えられるわけがありません。そして神様は続けられます。

『38:7 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。38:8 海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。38:9 わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。38:10 しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け38:11 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。』

これは創造の物語そのものです。創世紀には、天地創造の前の様子をこの様に書かいています。

創世紀『1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』

 天地創造の前は、地はありますが無秩序でまとまっていませんでした。そして水もありますが、海と陸ははっきりしていませんでした。

そして、創造の結果、夜明けの星は喜び、神の子らは喜びました。神様は海をつくりその海を雲と霧で覆っただけではなく、海にその波の限界を命令しています。つまり、海と陸を分けたのです。

ヨブは、この神様の呼びかけに何も答えることが出来ません。ヨブは神様の僕でしかなく、神様のなさることを知っているわけではなく、そしてどうしてそのように神様がされたのかも、知りようがありません。

 

 そこに、神様は立て続けにヨブに問いかけます。

『38:12 お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか38:13 大地の縁をつかんで/神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。38:14 大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。38:15 しかし、悪者どもにはその光も拒まれ/振り上げた腕は折られる。38:16 お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。38:17 死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。38:18 お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。』

 厳しい言い方ですね。自然現象である曙に「神に逆らうものを払い落す」ように命令できるのは神様だけです。また、大地をつかんで神様に「逆らうものを払い落とし」つつ、ひだを作って装う等とは、人が考えつくこととは思えません。そして、当時、海は水が湧き出ているところがあると考えられていて、地上も平らだと考えられていましたから、地の果ての様な大地の縁、深淵の底、死の闇の門を知っていると言うことは、この世界の果ての果てまでの全てを知っていることを指します。それを知っているのは、神様だけです。

さあ、ヨブは困ります。「自分は正しい、神様あなたが間違っている」と言いつのろうとしているヨブは一体何者なのでしょうか。神様に作られた「被造物」にしかすぎないヨブです。立て続けの神様の問いに対して、ヨブは一言も反論できませんでした。

そして出した結論があります。ヨブは神様に答えます。

『42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。』

 

ヨブは、砂嵐の中で、這いつくばったまま、この返事をしました。ヨブは自分が正しいと思っていましたが、それは自分の都合でしかありません。神様は、なぜそうされているのかは、ヨブにはわからないのです。それでもヨブは、苦しみの中にありましたが、神様に罪を犯すことはありませんでした。しかし、事実、ヨブ自身は正しいと主張し続けたのです。もちろん神様には、ヨブの声は聞こえています。そして、決して神様はヨブを見捨てたわけではありません。しかし、ヨブの心は、「私は、神様に罪を犯していない」ことだけに心が行ってしまい。かたくなになってしまったのでしょう。神様の救いの手を待つこと、また、神様にすべてを委ねることを実現する時はまだ来ていませんでした。考えて見ると、ヨブは神様のことを耳で聞いて知っているだけでした。今、目の前に神様と相対して、自分の主張「私は正しい」と言い続けることに意味を感じなくなりました。まさに、そこに神様の救いが来たのです。ヨブはその時、自分に与えられた苦しみが何故なのかは理解できません。しかし、この直接の苦しみが神様の裁きではないこと、そしてそれは神様の愛であることを感じたのでしょう。その時ヨブは、もう一つの苦しみから解放されました。

 

私たちが自分の置かれた境遇や、出来事の悲しさに心を奪われ続けた時、また、その出来事が不条理であればあるほど、私たちは苦しみから解放されることが難しくなります。どうにもならないし、どうしていいかわからない。そして、「私は悪くはないのに神様 どうして?」と言うような、疑問が余計に自身を苦しめます。あなたの罪が原因だと友人に言われては、なおさらです。しかし、私たちは神様ではないのですから、罪が無いということは無理なのです。むしろ、どこかで罪を犯してしまっている可能性を認め、そして神様に救いをお願いしたほうが、心の苦しみは和らぐのだと思います。ヨブの友人もそれを勧めました。罪を犯さないようにするのは、よい事ではありますが、それより大事なのは、神様の愛を受け入れることです。だから、私が悪いのではないと主張する事よりも、神様の愛を受け取る事が大事なのです。私たちが神様の方を向いて、神様の言葉に聞いているときも、そうでない時も、神様は私たちに向けて愛の手を差しのべ、声をかけてくださいます。私たちには神様の意図はわかりません。それがわからなくとも、神様に育まれている事を感謝し、神様の手に私たち自身を委ねる。そういう、信仰生活を送って参りましょう。必ず、そこには平安があります。