マルコ8:27-33

赦しのために

2023年 3月 12日 主日礼拝

赦しのために

聖書 マルコによる福音書 8:27-33           

 受難節第三週となりました。本日の聖書箇所には、イエス様とは何者なのかとの問いがあります。そして、死と復活についてと続きます。また、この後には、

『「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。』とのイエス様の命令になります。この3つの話題はつながっているのですが、一貫してお話するには、時間が足りません。そこで、今日はイエス様とは何者なのかを中心にお話ししたいと思います。


 さて、このマルコ8章27節からの記事ですが、ここから、マルコによる福音書は大きく変化します。イエス様は、ガリラヤ地方とその周辺地域で伝道していましたが、今日の箇所では、ガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動しています。イエス様はここで初めて、ご自身の受難と復活について弟子たちに打ち明けます。そしてエルサレムに向かって南下していったのでした。この時イエス様は、まもなくエルサレムで起こる十字架の死と、死からの復活の出来事に向きあっていたわけです。

 イエス様は弟子たちとフィリポ・カイザリア地方を旅していました。休憩をしているときでしょうか?イエス様は、弟子たちに質問します。

『人々は、私のことを何者だと言っているか』

弟子たちの答えから見ると、『バプテスマのヨハネだ』、『エリヤだ』、『預言者の一人だ』と言うことでありました。

 この三つの答えの共通な見解として、「預言者」だと言うことです。では、預言者とはどういう人のことを言うでしょうか?

新共同訳聖書の解説には、「神の啓示を受け,神の名によって語る人。」と書かれています。このように、神様から言葉を預かって、神様の名によって民に伝達する人のことを預言者と呼びます。新約聖書では、ギリシャ語では「代わりに語る者」(プロフェーテース : προφήτης)と言う意味の言葉が使われています。ですから、神様の代理だと言う理解で良いと思います。どんな人が預言者だったのか有名な預言者を挙げてみますと、モーセ、サムエル、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ、それからバプテスマのヨハネです。弟子たちの受け答えから、ユダヤの人々のなかには、イエス様のことを過去の預言者がよみがえったと思っている人がいることがわかります。それに対して、イエス様は再び弟子たちに尋ねます。

『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。』

ペトロは、「イエス様はそうした預言者ではなく、「メシア」(救い主)だと信じていることを表明しました。すると、イエス様は、ご自身のことを誰にも言わないようにと、弟子たちを戒めます。その時、イエス様は戒めた理由を説明しませんでした。それよりも前に、イエス様には、弟子たちに打ち明けたいことがありました。イエス様ご自身の受難と、死からの復活についての予告であります。イエス様は、力ある預言者としてユダヤの民、特に貧しい人々に受け入れられていました。弟子たちも、イエス様のその姿を見て、従ってきているわけです。弟子たちは、イエス様がユダヤの指導者になるだろうとの期待を持って、この群れに加わっています。それなのに、イエス様が近い将来死んでしまうと聞かされました。ペトロは、ショックを受けて、イエス様の予告を否定しました。すると、イエス様は厳しく叱責します。イエス様の予告を否定し、神様のご計画を受け入れなかったからです。それは、ペトロがイエス様を聖書の伝える「メシア」としてではなく、自分の思いを満たしてくれる預言者として従っていたことを示します。

 さて、ここで言う「メシア」とは何者なのかです。元の言葉は、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。メシアは、具体的な役割を示す名称ではありません。ただ旧約聖書の時代の習慣で、王様になる時には預言者たちによって頭に「油を注がれ」ますから、「王様」を意味するようになりました。 そしてもう一つ、救い主を意味します。預言者たちが、ユダヤの人々を救いに導く「油を注がれた者」が現れると預言したからです。この、ヘブライ語のメシアは、新約聖書ではギリシャ語でキリスト(クリストスχριστος)という言葉に直訳されています。意味は、同じ「油を注がれた者」です。そういうことで、イエス・キリストのキリストとは、イエス様の名字ではありません。救い主とは、イエス様の事であるとの証の言葉であります。


 さて、ペトロがイエス様の受難と復活の予告を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタンとまで言いました。どうしてそこまで叱責するのか、その時代背景を見てまいりましょう。


 紀元前6世紀にユダ王国は滅びますが、その後、ダビデの家系から「ユダヤを解放する王メシアが現れる」という預言が与えられます。これに、メシアとはこの世の終わりに現れてユダヤだけでなく全世界に神様の救いを及ぼす、そういった「世の救い主」という預言も加わります。しかし、多くの人が望んだのは、「ユダヤを解放する王様」です。

 ペトロは、イエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちにご自身のことを誰にも話すなと命じます。何故でしょうか?イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国について教え、群衆の目の前で奇跡の業も行いました。その評判を聞いて、大勢の人々が遠方からも集まっていました。その群衆に「イエス様がメシアである」と伝えるならば、群衆は大喜びして、さらに多くの人々が集まるに違いないのです。

 ところが、「誰にも話さないように」と戒められました。その戒めは、イエス様の事すべてをを誰にも話すな、ということではありません。話してはいけないのは、「イエス様がメシアである」ということだけです。

 メシアという言葉は、「ユダヤを支配から解放し王国を復興させるダビデの家から出る王」と理解されています。もし人々がイエス様をそういうメシアだと誤解してしまったら、どうなるでしょうか?イエス様は、神様の救いを全世界の人々に齎すためにこの世に送られた方です。それなのにユダヤの解放者に祭り上げられてしまったら・・・。そうなったならば、神様のご計画を台無しにしてしまいます。「古くから預言されていたユダヤの救い主が現れた」となると、時の為政者であるローマは放っておけません。それは、ローマに対する反乱を宣言するに等しいからです。実際、その当時ローマへの反乱が起こっており、すぐさま鎮圧されています。神様の救いの計画でありますから、単なる民族解放戦争につながってはならないのです。この世の人々の救いが、罪から解放されることが優先されるからです。

 ここで一度、ペトロのメシア理解を考えてみたいと思います。ペトロのメシア理解もおそらく、民族の解放者としてのイメージが強くあったのだと思われます。だから、イエス様が迫害されて殺されるという予告を聞いた時、ペトロは王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのです。これは、単に自身の要求を基準とした「人の思い」によるものです。


 それにしても、イエス様の予告を否定したペテロに「サタン」(悪魔)と言って叱責するのは、酷すぎと感じます。しかし、酷すぎと思うのは我々の「人の思い」そのものであります。ペトロの否定も「人の思い」から出たものであります。逆に、神様のご計画という視点から見れば、全く異なる景色があります。神様の救いを全世界の人々に齎すためには、イエス様の十字架の死、そして死からの復活が必要なのです。その神様のご計画を否定したり阻止したりするのは、まさにサタンの仕業です。ですから、イエス様の十字架の死と復活を否定したペトロは、サタンの味方をしたことになります。これが、イエス様の強い叱責の理由です。


 ここで、神様のご計画について少し考えてみましょう。キリスト教では、人間も含め全てのものが、神様に造られたものであると 教えています。造られた人間は、造り主の神様に従うという関係性をもって、すべては始まるわけです。しかし、その関係は壊れてしまいました。創世記(3章)に記されているように、最初の人間が神様に対して不従順な行い、つまり罪を犯すようになってしまいました。そのため、神様によって、人間は永遠に生きる事の出来ない存在にされました。

 しかし神様は、「人間との結びつきを回復する」と決めました。たとえこの世から死ぬ時が来ても、「人は神様のところに永遠に住める」ようにしようと決心されたのです。これが、私たちを救おうとされる理由です。この救いの計画はいかにして実現されるのでしょうか?罪が人間の内に入り込んで、神様との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪を取り除かなければなりません。しかし、それは罪にどっぷりつかっている人間の本人の力では不可能なことでした。

人間が自分の力で罪の汚れを取り除くことが出来ない とすれば、どうすればいいのでしょうか?これに対する神様の解決策はこうです。御自分のひとり子を人としてこの世に送り、人間が神様に対して負っている罪という負債を全部背負わせるのです。人間の罪の罰の全てをイエス様に負わせて、十字架の上で死なせる。まさに、ひとり子を身代わりとして、「生贄の死に免じて人間の罪を赦す」、というものでした。ひとり子を犠牲にされた神様は、まさにあなたのために、そして私のために、それをなされたのです。私のために・・そこまで・・ とわかって、そして「イエス様こそ私の救い主なんだ>>」と信じる。そうしたとき、私たちの罪は、神様から赦されるのです。神様から罪を赦されたということは、神様との結びつきが回復したことです。そして、この世で死んでも、自分の造り主である神様のもとに永遠に住むことができるようになるです。


 罪があるままの私たちにもかかわらず、神様は私たちの罪を赦してくださいました。このことへの感謝に、気恥ずかしさと畏れ多さを感じますが、まさにこの感謝の心から、人生が再スタートします。「このような神様の恵みにお答えできるように生きなくては・・」との思いからです。そして、神様を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するがごとく愛するという 努力を始めます。しかし、なかなか思ったようには いかないものです。

 ここで、申し上げたいことがあります。「私たちの罪はすでに赦されている」ということです。もちろん、「すでに赦されているから何でもやってよい」と言うことではありません。それでも、「罪を犯さないように」とか「イエス様の教えのとおりに」と頑張りすぎなくてもよいのです。なぜなら、神様は、罪を持ったままの私たちをお赦しになったからです。だから、神様に認めてもらうために、気合を入れて頑張る必要はないということです。人には、「神様に背く罪」に誘惑されることが、たびたびあります。そして、咎められるようなこともしてしまいます。そういう背きがあるにもかかわらず、神様は私たちを咎めないと言って下さっているのです。

イエス様の教える愛とは、このような「罪の赦し」を受けた私たちの、感謝の応答であります。ですから、「愛しなさい」とは、神様の赦しを受けるための必要な義務や条件ではないのです。赦しはイエス様を信じた時から、既に受けています。神様は私たちを愛してくださっているからです。神様は、「私たちを赦すために」、そして「私たちに平安と永遠の命をもたらすために」ひとり子イエス様を十字架にかけられたのです。この、神様が与えて下さった平安と永遠の命に感謝いたしましょう。