ヨハネ6:27-35

 命のパン

2020年 11月 15日 主日礼拝 

『命のパン』

聖書 ヨハネによる福音書6:27-35 


 先週は、就任・按手式感謝礼拝を守っていただきありがとうございます。私は、5月に経堂教会の牧師になりましたが、4月の第二週から、政府の緊急事態宣言を受けて、教会活動の停止状態からのスタートでありました。来てすぐのことで、大変面食らったのですが、執事会で6月から礼拝の再開を決断し、また8月には決算総会も開くことができました。その結果代表役員の交代手続きがようやく可能になりました。 つまり、「法的には」私は8月30日の総会で経堂バプテスト教会の牧師となったということです。そのあと9月までに法務局の審査と登記を終え、10月に宗教法人法に基づく東京都への届け出を完了。こうして代表役員として、先週の牧師就任・按手式 感謝礼拝を迎えることができました。ようやく一段落出来たと思っています。教会の運営も、皆さまの協力で、従来通りとはまいりませんが、継続できていることを感謝します。また、会衆主義教会としてこれからの運営を一緒に考えていきたいので、これからもよろしくお願いします。伝道する教会になっていこうとの夢を持って、取り組んでまいりましょう。

 

今日は、ヨハネによる福音書から「命のパン」についてです。このみ言葉は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に書かれている五千人の給食の物語からつながっています。五千人の給食の物語はそれぞれの福音書で、微妙に言おうとしている内容が違います。そこで今日は、混乱しないために、ヨハネによる福音書で、五千人の給食は、どういう物語だったのかを、まず先に振り返ってみたいと思います。

聖書の箇所は、6章1節からになります。

・ガリラヤ湖の対岸にイエス様が渡ったとき、群衆が押し寄せた。それは、イエス様がなさったしるし(いやし)をみたからです。

・イエス様は山に登って、弟子たちと一緒に座って、過ぎ越しの食事の心配をされた。そこでイエス様はフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。これは、フィリポを試みるためだった。

・フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。ここを読むと、イエス様が「しるし」をなされることをフィリポは全く考えつきもしていません。

・そこで、アンデレが言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」前向きの提案をしたアンデレですが、イエス様が起こされるであろう「しるし」を期待して提案したようには見えません。アンデレは、フィリポの先ほどの「ゼロ回答」ではまずいと思って、充分かどうかはともかくとして、自分らのできる最大のことを提案したのだとわれます。

・イエス様は五千人をそこに座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えました。パンも魚も増えたと聖書は言っているのです。

・そして、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。このように聖書は、パンが足りたのではなくて、パンが増えたことを、念を押してきていることにも注意が必要です。

・そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。

このあと、イエス様は山を下りて群衆の前から立ち去るのですが、群衆は次の日にガリラヤ湖の反対側のカファルナウムでイエス様を見つけます。

・群衆は、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言うと、イエス様が、答えられます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

ここで群衆はもともと、イエス様の癒しの「しるし」を見たからイエス様のところに集まってきたのですが、イエス様は、それを否定されました。今カファルナウムまで追いかけてきたのは、「しるし」の為ではなく、パンをもらって満足したからにすぎないと言うのです。この部分は、ヨハネによる福音書にしかない記事ですから、なぜ、ヨハネはそのようなことを言うのか興味のあるところです。

 

 今日の聖書の箇所は、ここに続くものです。ほかの3福音書は、五千人の給食で群衆が満足したところで終わっていますが、ヨハネによる福音書ではイエス様が預言者だとして群衆に囲まれたので、イエス様はその場を離れているのです。そして、さらに群衆は対岸からカファルナウムまでイエス様を探しに来て、今日のイエス様の言葉になります。

 もう一つ、参考になる事実があります。聖書の成立には諸説はありますが、マルコが一番早くAD50~70年、次がマタイ、ルカでAD80~90年、一番遅いのが、ヨハネでAD90~100年です。ですから、今日の聖書の箇所は、3つの共観福音書にはない教えが、このヨハネによる福音書で、書き加えられたと考えてもよいと思います。書き加えられたところに、著者ヨハネの意図があるということです。

 

今日の聖書を読むために、前提としなければならないことがあります。

何かと言うと、「しるし」は、示されているということです。本当に、パンが増え、本当に五千人全員が満足するほどのパンが現れたのです。それを、奇跡は起こっていないとの立場に立って、「み言葉で満足したことを象徴した たとえ」であるとか、「みんなが持っているパンを出し合った」とか考えてしまうと、そこで物語が完結してしまって、今日の聖書の箇所をヨハネが書き足す意味がなくなってしまいます。

言い方を変えると、ヨハネによる福音書は、成立したAD100年ごろ、この五千人の給食で「しるし」が行われたことを前提にして書かれたと考えて良いかと思います。もう一つだけ付け加えると、今日の宣教題である「命のパン」は、イエス様を指す言葉です。教えのことを「パン種」と呼ぶことは、他の福音書からもわかりますが、イエス様自身のことや、イエス様のことばを「命のパン」と呼ぶのは、ヨハネによる福音書だけになります。

 

イエス様は言われます。『6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」』

「朽ちる食べ物」とは、群衆が前の日にイエス様から頂いたパンに代表されます。食べてしまえばなくなり、そのまま取っておいても時間と共に腐ってしまいます。ですから、その満足は続かないのです。そして、「永遠の命に至る食べ物」とは、「命のパン」であるイエス様のことです。イエス様は、父なる神様がイエス様ご自身を私たちの永遠の命のために下されたことを群衆に教えました。

 

さて、群衆は意味が分からなかったのでしょう。そもそも、群衆はイエス様を預言者のような先生だと思って集まってきていました。そこで、イエス様が「人の子」であり、「父である神がイエス様ご自身を認証された」と言われても、群衆には意味が通じません。群衆はイエス様を預言者としか見ていないので。ですから、「イエス様を神の子として信じます」とではなく、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いたのです。イエス様が神の子であると言ったことは、すっかり聞き流してしまって、この群衆に指示をしてくださいという意味で、なにをしたら良いでしょうか?と聞いたのです。群衆が期待したのは、暴動を起こして世の中をひっくり返すことだったのかもしれません。そんなことですから、会話がかみ合っていないのです。この群衆は、イエス様のことを預言者として祭り上げようと思っていました。そんなこともあって、イエス様の言葉に聞いていながら、イエス様を神の子として受け入れなかったのです。あくまでも、病気を癒す力のある預言者と群衆の目には映っていたのだということです。

それに対し、イエス様は重ねて言います。

『「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」』

イエス様は、より直接的に「私を信じなさい」と言ったのです。

そのイエス様の言葉を聞いた群衆は、それでも また 「しるし」を求めたのです。また、と言うのは、この群衆はイエス様のいやしの「しるし」を見て集まってきたことと、その後五千人の給食の「しるし」に立ち会っているからです。イエス様も、五千人の給食のあとに群衆が集まってくるのを見て、『「しるし」の為ではなく、パンをもらって満足したからにすぎない』と言っていたように、この群衆は「しるし」をさんざん見てきたのですが、イエス様を信じているわけではないので、その「しるし」が行われても、不思議とそれが「イエスが神の子であるとの しるし」であることに気が付いていないのです。ただ、そこでは病人が癒されて、そして自分がパンをもらってお腹がいっぱいになった記憶だけはありました。そういう状態でしたので、群衆はお腹を空かすと、また「群衆が望む しるし」を求めたのです。

『6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」』

 

何度も、「しるし」を見ているのですが、この群衆は満足しませんでした。イエス様が言われた、どんな「しるし」もこの群衆の前には、その成果として配ってもらった「朽ちる食べ物」にしかすぎませんでした。そこでお腹を膨らましている間は満足していますが、すぐにお腹を空かしてしまうのです。そして、また、「しるし」を求めます。

『「しるし」の為ではなく、パンをもらって満足したからにすぎない』とイエス様が言った通り、群衆は示された「しるし」を信仰をもって受け取ったのではなく、「しるし」の結果配ったに過ぎないパンだけを受け取っていたのです。イエス様は、何度も同じように「しるし」を示されたのに、です。

聖書は続けます。

『6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』

ここまで、イエス様がお話しされるのですが、群衆はイエス様の言葉を受け入れませんでした。イエス様も、そのことを理解しながら、教えています。

群衆は言います。『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と、イエス様に話を合わせているようではありますが、求めているのは朽ちるパンの方だったのです。これを繰り返しても、どんな奇跡のような「しるし」があっても、また、「しるし」を見せてくださいと言うでしょう。それでも、イエス様は毅然として教え続けます。

『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』

 

さて、弟子たちですが群衆と同じように、信じていなかったのでしょう。続きの部分で聖書はこの様に言っています。ヨハネ『6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」』

 

残念なことに、弟子たちがイエス様を本当に信じるためには、十字架の出来事が必要だったのです。私たちもそうです。お話のおいしいところだけ受け取って、もっと良いお話をねだるのと、変わりがありません。本当に受け取らなければならないのは、み言葉ですし、そのためにはイエス様を信じていることが必要なのです。イエス様を、そしてイエス様が私たちのために十字架にかけられた愛、その愛を信じていない状態では、どんな「しるし」が目の前に示されても、それを「しるし」と気が付かないのです。イエス様に祈ってそして導かれたからこそ、それがわかり、命のパンであるイエス様への信仰が与えられるのです。しかし、イエス様を信じ、イエス様に信頼していないのであれば、どんな奇跡的なことが起こされても、何も気が付かないのです。私たちは、イエス様に、信じて、信頼して、委ねて、祈ったからこそ、イエス様の命のパンに与れたのです。このように、信じることがまず先のことなのです。

逆に、「しるし」を見る事だけでは、決して信仰は与えられません。命のパンに与るには、イエス様を信じる事。そして、祈り求める事。そうすれば命のパンは与えられ、いつも満たされるのです。

今年も、待降節がもうすぐにやってきます。改めて、イエス様に委ねて、祈ってまいりましょう。そうすれば、イエス様によって満たされます。