1.安息日の癒し
『3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。』
イエス様は、カファルナウムの会堂を中心にして、活動していました。人々とは、ファリサイ派の人々のことです。そもそも、会堂はファリサイ派の人々が造った機能です。会堂で礼拝をし、そして聖書を学ぶわけです。ファリサイ派の人々が安息日に会堂に集まっているのは、普通のことです。しかし、この日は、片手の萎えた人がいます。もしかすると、ファリサイ派の人々は、イエス様に安息日の癒しをさせるために、わざわざ呼んできたのかもしれません。そうまでしても、イエス様を宗教裁判にかけたかったのでしょう。
『3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。』
イスラエルの民にとって、安息日は神様との契約の印です。したがって、安息日は、民族のアイデンティティともいえる行事なわけです。他の民族の祭りと異なり、休むことを目的とした聖なる日でした。神様は安息日の過ごし方について、働いてはならないという掟を与えましたが、具体的なことは、特に指示していません。しかし、後世になって、何をもって労働であるのかを解釈を始めた人たちがいました。ファリサイ派の人々や律法学者たちです。ある意味、会堂で権威を示すには、そのような立法の解釈は都合が良かったのでしょう。そもそも、何を労働として禁止するのか? たぶん、食べることに必要なことまで禁止したり、命にかかわることを禁止したのでは、反発されるのは目に見えています。だから、食事を器に装うことや食べることは労働ではないが、料理は労働であるなどと、細かく決めていたのです。その中には、病気や怪我であってもそれが命に別条がなければ、治療してはいけないというものまであったのです。
彼らは、安息日の掟を守ろうとするばかりに、癒しをするイエス様を裁いてしまいました。イエス様こそが、神様の定めた安息日を成就される方なのにです。そして今、この片手の萎えた人にとっては、癒しの手が差し出されたこと、この救いの喜びは、安息日にふさわしいものだと言えるでしょう。一方で、ファリサイ派の人々は、普段は敵対しているヘロデ党の者(親ローマ派)たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めました。ファリサイ派の人々は、ユダヤの最高法院を動かしていますが、ローマへの政治的発言力はありません。ヘロデ党と相談するということは、宗教裁判ではなく、イエス様をローマ法で裁きたい、すなわち刑罰を与えたいという趣旨だと言えます。
2.集まる群衆
『3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。』
イエス様は、会堂に居たら危険だと思ったのでしょう、そこで湖の方に立ち去りました。ところが、ガリラヤ中から人々が押し寄せてきました。また、ガリラヤの外からも、とんでもない数の人々が押し寄せてきます。エルサレムから、そしてその南のエサウ人の子孫であるイドマヤからもやってきました。彼らはユダヤ教への改宗者です。そしてヘロデの家もイドマヤ人です。そして、ヨルダンの川向うとありますが、これはデカポリスの一部とペレアだと思われます。ペレアはヘロデ・アンティパスの領地です。デカポリスは、異邦人の町です。それから、ティルス(タイアー)とシドンです。そこは、海洋民族であるフェニキア人の港町です。つまり、ユダヤ人の枠を越えて、近隣の異邦人にまでイエス様の噂が広まっていたのです。
『3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。』
群衆が押し寄せてくるので、イエス様は距離がとれるように小舟を用意させて、そこから御言葉を語りました。それは、癒しを求めて群衆がイエスに触ろうとしたからです。イエス様は、集まった群衆を片っ端から癒したのでしょう。汚れた霊どもが、そこに現れます。
『3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。』
汚れた霊どもは、イエス様が「神の子」であることを知っていました。けれども、イエス様は「言いふらさないように」言います。まだ、その時は来ていないからです。