1.神殿から商人を追い出す
成人青年は年に1/2シュケルを神殿に納めなければなりません。神殿税のことです。1シュケルはだいたい2デナリ(デナリウス)だったようです。
当時ユダヤで流通していた通貨は、ローマの貨幣デナリウスで、ローマの皇帝たちの肖像が入っています。したがって、ローマの貨幣を神殿に納められません。そこで登場するのは両替商という事になります。イエス様は、祈りの家が商売の場所(強盗の巣)になっていることを見て、商人を追い出しました。そして子供たちまで「ダビデの子にホサナ」と叫ぶので、祭司たちは怒りました。
詩編『8:3幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。』
つまりこの預言が成就したのです。
2.いちじくの木を呪う
マルコによる福音書には、同じ記事がもっと詳しく書いてあります。一方で、ルカでは以下の通りの視点が違う話題に変わっています。
◆「実のならないいちじくの木」のたとえ
ルカ『13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」』
マルコとマタイではイエス様が実の成らないいちじくを 呪って 枯れさせてしまいます。そのように、願ったことが叶う事に焦点を当て、そして、「信じて祈るならば、求める者は何でも与えられる」という 話に仕上げられています。
一方で、ルカではイエス様のたとえとして登場します。ぶどう園をつぶしてわざわざ いちじくを植えたのに、そこには実がなりません。役たたずなので、切り倒すよう言います。しかし、園丁は、まだまだあきらめずにやってみましょうと提案するのです。
同じ実がならない いちじくについて、「信じて祈れば 枯らすこともできる」 という話にもなり、「あきらめずに 世話を続けよう」という話にもなっているわけです。
いちじくは、ぶどう、オリーブ等と同じように日常の食べ物でありますから、特別な価値があるわけではないので、実がならなければ用はありません。しかし、すぐに切捨ててはならないとのルカの記事でした。マタイとマルコは、「イエス様には何でもできる」と、イエス様の信仰の力を強調したのだと思います。
3.権威についての問答
神殿でイエス様が教えていると、祭司長たちが近寄って来て「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問います。
その答えは置いておいて、イエス様は逆に尋ねます。比較のために、祭司長たちがイエス様に問うた内容(問いの意味)を併記します。
(イエス様の問い)
ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。
『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、バプテスマのヨハネを支持する群衆が怖い。無難に、わからないと答えました。
(祭司長たちの問いの意味)
イエスの教えはどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。
『天からのものだ』とイエス様は、答える準備がありました。しかし、『イエス様の教えは、人からのものだ』と祭司長たちが主張していたにもかかわらず、群衆の前では『ヨハネの洗礼は、人からのもの』だとさえ、いう事ができませんでした。そして、『わからない』と逃げてしまいました。こうなるとイエス様は、あえて答える必要がなくなったと言えます。
祭司長たちは、真剣にイエス様のことを知りたくて尋ねたのではないのです。イエス様の教えが、『天からのもの』と言わせることによって、イエス様を追及する目的でしかありません。ですから、イエス様も同じ仕掛けでバプテスマのヨハネの洗礼が『人からのもの』と群衆の前で言う度量があるかどうかを試したのです。すると、祭司長たちが群衆に追及されるのは困るので、質問を引っ込めてしまいます。自分の信じることをぶつけて議論をするという立場ではなく、飽くまで、相手の弱みを突いて追及する態度でした。イエス様は祭司長たちと議論する意味がないことを見抜きました。また、祭司長たちは自分たちの仕掛けた言葉の罠が、全く通用しなかったことを悟り、反省したのでしょうか? いいえ。いよいよ、イエス様を憎んだのかもしれません。