1.復讐からの解放
『5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』
イエス様は「目には目を、歯には歯を」という律法の規定について語ります。 (参考:出エジプト記21:24,レビ記24:19-20)
この規定の意図は、被害以上の報復をしてはいけない。つまり、倍返しをお互いに実行するのであれば、報復合戦がさらに激しくなってしまうことを防ぐためであります。決して、同等の被害を与える仕返しを勧めているのではなく、争いが収まるために、対価をもって示談をするなどの知恵をもって解決することがふさわしいはずです。ここで大事なのは、復讐をしようとの 心の不自由さから解放されることです。
イエス様は、復讐せず、仕返ししようとする思いから解放されるように、と教えます。そもそも、悪人に手向かってしまっては、こちらの被害の方がひどくなるに決まっています。また、「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と教えます。決して悪人を野放しにしてよいわけではありませんし、律法では頬を棒で殴るとか、平手打ちすると1シェケル以上(24000円くらい)の罰金があるので、その裁きは受けなければなりません。ですから、人間の尊厳を脅かすような右頬への攻撃は、強い悪人に対して仕返しをするよりは、左の頬を悪人に預けることも一つの方法として、成り立つわけです。非暴力での訴えは、以外と人々の心を動かすことは、歴史が物語っています。
『5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。』
これは、復讐心から自由になった者の姿のたとえです。下着よりも上着は高価ですし、また夜はいくら借金の担保となっていたとしても、夜具として使わせなければなりません。そんな大事なものを、イエス様は与えなさいと言うわけです。そこには下着を取られないようにするとか、取り返すとの発想はありません。争うよりも、与えた方が気が楽であるのかもしれません。私たちはそこまでできそうにありませんが、イエス様ならそうしそうです。
当時のローマ兵は、駅伝システムを持っていました。担当の場所があって、周辺から人を借り出して荷物を運ばせたりするわけです。もちろん、無報酬でローマ軍の荷物運びをすることは、大きな負担です。(「1ミリオン」は約1.5㎞) しかし、イエス様は求められる以上のことをしなさい、と命じています。
『5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。』
ここは、決して「求められるものは全部与えなさい」との教えではありません。物に対する執着心から解放されなさいとの教えです。
2.全き愛
『隣人を愛し、敵を憎め』の「隣人を愛し」は、レビ記19:18 からの引用です。一方で 「敵を憎め」は、旧約聖書に書かれていません。当時、ユダヤ人たちの間で言われていたのでしょう。
律法学者たちの言う、「隣人」とはイスラエル人のことです。そして、異邦人は「敵」とされていました。 しかし、イエス様は自分の敵さえも愛するよう勧めます。
『5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。』
天の父は、悪人にも善人にもわけへだてなく、太陽を登らせます。そして正しい者にも正しくない者にも雨を注ぎます。この天の父にならって、敵を愛しなさい。そして自分を迫害する者のために祈りなさい。イエス・キリストの贖いによって「天の父の子ども」(神の子)とされた者は、父なる神様に似た者となりなさいと、イエス様は教えているのです。
地上に来られたイエス様は言行を通して、神様の完全 (全き愛)を人々に示しました。イエス様はこのみことば通り、十字架の死に至るまで「敵を愛し、ご自分を迫害する者のために」祈ったのです。
今も、聖霊によって私たちのうちに神様の愛が注がれています。
ローマ『5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』
聖霊によって私たちは神様にならう者、イエス様に似た者へと変えられていきます。聖霊の働きによる神様の愛の心をいただき、イエス様と共に神様を愛し、隣人を愛する道を歩みましょう。