当時使った革袋と同様の水筒(約1ℓ)
直接口をつけて飲みます。
1.断食をする意味
「断食」というのは、食事を採らずに、神様に祈ることです。当時のユダヤ人たちは、一年に一度、「大贖罪日」という日には断食をして、悔い改めの祈りを捧げました。また、季節によって特定の日に断食をする習慣がありました。また、ファリサイ派の人々は、毎週月曜日と木曜日に断食をしていたようです。
彼らの「断食」には、特別な意味がありました。イスラエルが回復して「救われる」ことです。それは、霊的な「救い」を意味するものではありませんでした。また、多くのユダヤ人は、「断食」を形骸化してしまい、実際には全く悔い改めていなかったのです。
『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』
イエス様はヨハネからバプテスマを受けています。そしてラビとして教えているのだから、普通に考えると、断食を熱心に守るべきだということなのでしょう。ところが、これほどまでに大切な「断食」を、行なわないのならば、堂々と「罪人」であることと、悔い改めていないことを公にするようなものだからです。また、形骸化していると言っても、イスラエルをローマから「救われる」ことが、彼らの求める所でした。彼らは、我慢ができなくなって、イエス様に質問を投げかけたのでしょう。それに対するイエス様の答え。
『2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。』
花婿とはイエス様のことです。花嫁は教会のことを象徴しています。いま、イエス様はこの世にいて、弟子たちと伝道をしています。まさに婚宴の最中なわけです。そんな婚宴の時に、断食をする必要はありません。花婿であるイエス様が犠牲になった時が来るので、その時が断食をするにふさわしいのです。
2.革袋のたとえ
イエス様が言いたいことをまとめれば、ファリサイ派の人々を古い者、そしてイエス様が新しい者であるわけです。ファリサイ派の人々自身は、古いぶどう酒。イエス様が新しいぶどう酒。ファリサイ派の人々の大事にする掟は、古い革袋。イエス様の新しい掟が、新しい革袋です。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、革袋が裂けてしまします。なぜなら、発酵と共にガスが発生して革袋がパンパンになってしまうからです。古くなった革袋は強度が落ちているので、とても耐えられません。だから、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるしかありません。古い革袋は、古いぶどう酒だからこそ充填できるのであって、新しいぶどう酒には向かないのです。
ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちは、“神の国”がすぐそこに来ていたのに、気づきませんでした。自分たちが祈り求めていたことではなく、本当の救いが成就しようとしているなどとは、思ってもいなかったのです。
「古い衣」は、「新しい布切れ」を受け入れられない。「古い革袋」は、「新しいぶどう酒」を受け入れられない。それと同じように、ファリサイ派の人々は、イエス様がもたらすであろう“新しい救い”を想像することもできなかったのです。彼らは確かに、神の国の到来を祈り求めていました。しかし、彼らにとって、本当の“神の国”は、望んでいた「ローマからの解放」ではなかったのです。