マタイ4:12-17

悔い改めよ

2024年 128日 主日礼拝  

悔い改めよ

聖書 マタイ4:12-17

 先週は、「四人の漁師を弟子にする」、「おびただしい病人をいやす」の記事から宣教しました。今週は、伝道を始める記事からです。話す順序が逆ではないか、と思われるかもしれません。しかしこれは、教会暦の上では正しい順番であります。イエス様の最初の弟子は、ヨハネの弟子であったアンデレともう一人いたわけです。ところが、マタイにはその記事が無いので、先に宣教を始めたように見えます。しかし、イエス様にはバプテスマを受けた直後から、弟子が二人いたわけですから、宣教開始はその後なのです。それで、その順番にしたがって今日は「イエス様の宣教の開始」のお話です。ルカやマルコの福音書では、「神の国は近づいた」というイエス様の宣言を中心に、イエス様の宣教開始は非常に短い記事となっています。ところがマタイだけは、旧約の預言書の言葉を引用して、少々長めです。そこに、意図がありそうです。

 さて、イエス様が伝道を開始した場面であります。このころ、バプテスマのヨハネが捕まったことを知ったイエス様は、カファルナウムに住むようになりました。バプテスマのヨハネは、イエス様の先駆けとして現れ、罪の悔い改めを教え、バプテスマを授けた人です。この人を捕まえたのは、ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスです。つかまった理由は、ヘロデ・アンティパスの結婚をヨハネのが批判した事でありました。

 さて、ユダヤで宣教をしていたイエス様は、ヨハネが牢に入れられたことを知って、ユダヤからガリラヤに出発します。これは、ファリサイ派の人々の嫉妬を避けるため(ヨハネ4:1-3)でもありました。そのころ、すでにイエス様の弟子たちは、バプテスマを授けていました。そして、イエス様はバプテスマのヨハネよりも多くの人にバプテスマを授けたので、ファリサイ派の人々が嫉妬していたようです。もともと、バプテスマのヨハネが始めたバプテスマは、決して新しいものではありません。しかし、その意味合いは新しかったのです。伝統的には、バプテスマは、改宗者に施す等の「清め」であります。人の汚れを取り去るのが目的でありました。そこにバプテスマのヨハネが、「悔い改め」の告白を加えて、バプテスマを授けたわけです。悔い改めとは、回心。つまり、神様に立ち返ることを決心することです。そして、回心を告白した人に、ヨハネは救いのしるしとしてバプテスマを授けたわけです。一方でファリサイ派の人々は、律法を守らない人や守ることが出来ない人を汚れた者としていました。そして、自分らは律法を守っていることを誇りにしており、また自らを清い者と思っています。つまり、律法によって罪がない清い者になるとのファリサイ派の教えと、悔い改めのバプテスマは立場が真逆なのであります。ヨハネは、「回心して神様から赦される」ことを教えて、バプテスマを授けました。ファリサイ派の人々がよりどころとしている律法で救われるのではなく、神様に立ち帰れば救われるとの教えです。その教えはファリサイ派に警戒されていたと言えます。また、イエス様はバプテスマのヨハネ以上に多くのバプテスマを施していたので、目立ったのでしょう。そのためにイエス様は、ユダヤを出てガリラヤに向かいます。一つは、異邦人のガリラヤと呼ばれる田舎に引き込むことで、ファリサイ派の人々との衝突を避けたと思われます。またもう一つは、ヨハネの弟子たちを励ますためであります。こうして、ヨハネが捕まったことによって中断されたヨハネの宣教の業は、イエス様によって次の段階に進んだのです。


 イエス様が選んだ伝道の地はカファルナウムでした。故郷ナザレは、選びませんでした。たぶん、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」(ルカ4:24)と言うことだったのでしょう。それと、当時のカファルナウムは、ガリラヤで一番の町でした。ガリラヤ湖畔の北側に位置し、主要な街道が通っていたため、ローマ軍の駐屯地と税関が置かれていました。そのために、軍事、流通の拠点として、にぎわっていたようです。このカファルナウムの町の会堂(ヨハネ6:59)で、イエス様は教えていました。

 このガリラヤの地については、イザヤ書9:0-1に預言されています。それが、15,16節の言葉です。

イザヤは、アッシリアの侵略で荒らされる事を預言していました。ガリラヤは、ゼブルン族とナフタリ族の嗣業の地ですが、アッシリアの捕囚のために、異邦人の地域になってしまいます。イザヤは、その異邦人のガリラヤにいるユダヤ人に慰めの預言をしたのです。そして、その栄光に与る人々は、イエス様の宣教による救いを受けとり、暗闇に光が差し込むようになる と預言しています。 海の道、すなわち、海と呼ばれるガリラヤ湖のほとり、そして、ヨルダン川沿いがガリラヤであります。そして国境の地ですから、もともと異邦人が多く、また、アッシリアによって北王国が滅ぼされた関係で、異邦人が入ってきていたのです。結果として、ガリラヤは異教徒の多い町になりました。その異教徒の町が栄光を受ける。これがイザヤの預言であります。

 マタイは、このイザヤの預言とイエス様がカファルナウムで宣教をし始めたこととを結び付けて、このように書きました。

『4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』

この「悔い改めよ。」は、バプテスマのヨハネの言葉と完全に一致しています。

『3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、

3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。』

「悔い改めよ」とのヨハネの言葉、そしてイエス様の言葉は、マタイだけの記事であります。たぶん、イエス様がバプテスマのヨハネの宣教を引き継いでいることを、マタイは強調したのだと思われます。


 このように、バプテスマのヨハネの宣教の終わりは、イエス様の宣教の始まりでありました。そして、ヨハネの宣教の終わりは、ヨハネの準備が完了した事を指します。神の国の完全な到来が、より近づいていたのです。


 イエス様は、暗闇の中にいる人々のところに来ます。暗闇に光をもたらす。それが救い主なのです。 暗闇の地に住む人々は、明かりが無いので、座ったままでなにもできません。そして、自分自身の慰めを頂くこともなく、望みを失ったままです。

 暗闇とは何を指すのでしょうか? それは、無知だということです。イエス様を知らなければ、私たちは神様も自分自身も知ることはなかったでしょう。この無知から迷いや恐れが生まれ、それは絶望の底へと心を沈めていきます。それが、暗闇であります。また、暗闇に住む人々とは、異教徒の事でもあります。この地の人々は、異邦人が多く、異邦人は異教徒であります。そして、この異教徒の影響で、ユダヤの人々も、神様以外のものを礼拝していたわけです。その不信仰な異邦人のガリラヤこそが、大きな光を見ることになるのです。それは、どういうことなのでしょうか?。


 ガリラヤ湖周辺の主要な町である「カファルナウム」は、イエス様の宣教の拠点、足場であったとされています。なぜ「救い主であるイエス様」は、ガリラヤ湖の周辺地域で、もっと言えば、なぜそんな呪われた場所で、宣教をしたのか? この問いにマタイが答えています。

 紀元前8世紀後半、北王国が、アッシリアによって滅ぼされました。民は捕囚され、代わりに多くの外国人が入ってきました。おまけにイエス様の時代には、カファルナウムにローマ軍の駐屯地も置かれています。ユダヤの保守的な人々は、やはり外国人が多く住んでいて、外国との境目に位置するガリラヤを、穢れや呪いを受けた暗闇の地域として嫌い、また蔑んでいました。そういう事情から出てくる疑問が、「こんな辺境の地に、救い主が現れるのか?」だったわけです。マタイはこの疑問に イザヤの預言を使って答えます。神様が救い主をガリラヤへと送り出した証拠は、イザヤのこの預言であると・・・。


 ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、「異邦人のガリラヤ」は「死の陰の地」であり、そこは「暗闇に住む民」の地であるとイザヤは預言しました。イザヤの時代、異邦人が多く住んでいる町であり、偶像を礼拝した町でもあります。それが、「暗闇に住む民、死の陰の地」なのです。そして、とうとうバプテスマのヨハネまでも捕らわれてしまいました。 しかし、イザヤの語った預言は、この民への裁きではありませんでした。

『 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』

 暗闇の中では手探りで動こうにも、どちらに行けばいいのか、戸惑い立ち往生します。それでも、「見捨てられるのではない」と言うのです。大きな光がそこに照り、光が射し込む。このこの預言の言葉通り、キリストであるナザレのイエスは、暗闇の地で宣教を始めたのです。


「悔い改めよ、天の国は近づいた」。この「近づいた」という言葉には、「近づきつつある」という時制が用いられています。神の国は、今の私たちには見えません。しかし、イエス様によって、天の国の到来は告げられています。そして、その到来のしるしは示されているのです。だから、悔い改めが求められているのです。信仰の火を灯しながら、その天の国が来る時を待ちたいですね。


 さて、赤、青、緑色の光が集まると、光は白く見えます。そして黒は、暗闇、光のない状態を意味しています。暗闇の世界を照らすような、心の光を私たちは灯せるでしょうか? 一人一人がイエス様の光に応答して、心に色々な光を灯す。世界中の人に悔い改めてもらって、光を大きく、そして強くしていきたいですね。イエス様の光の到来は、ずっと以前から、イザヤが預言していました。そして、ヨハネを殺した暗闇の勢力は、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。しかし、その十字架からイエス様は復活します。暗闇に、このように大きな光が差し込んだのです。それは、イエス様の十字架から始まって、大きな光となり、そして私たちはその光に照らされて救われたのです。全てはイザヤを通して神様が約束した通りです。私たちには、イエス様の言葉に従うことだけが求められています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」


 神様を信じ、そして神様に心を向けなおす。それは、私たちキリスト者がいつも心がけたいことです。そして、神様に心を向けている限り、私たちは罪を赦され、そして救われる。このような約束をしてくれた神様、そして実行してくださった神様に感謝いたしましょう。また、日々神様に向って私たちの犯しただろう罪を憶え、赦して下さい と祈ってまいりましょう。