2022年 4月 17日 主日礼拝
『復活したイエス様』
聖書 マルコによる福音書 16:1-20
イースターおめでとうございます。今日は、イエス様が復活した記念日です。過ぎ越しの祭りの前の日に十字架にお掛かかりになったイエス様は、祭りが始まる日没前に、墓に葬られました。ユダヤ人は、葬儀と埋葬は亡くなったその日のうちに済ませるのが習慣です。(とは、言いながら現代では1日から2日埋葬に時間がかかることは、やむを得ないとされるようです。)イエス様の時代は、日没までに埋葬を行うことが大原則です。しかし、日没直前に亡くなるととても間に合わないので、そういう時は朝になる前に埋葬まで終わらせました。ところが、イエス様が十字架で死なれた日は安息日の前の日です。安息日には、葬りの準備ができません。その関係で、本来遺体を墓に運ぶ前の、油や香料を塗る清めの時間が足りなかったと思われます。当時、どのような葬りの準備をしたのかと聖書をみますと、ヨハネによる福音書に書かれています。
ヨハネ『19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。』
この記事を見ますと、大急ぎで可能な限りユダヤの習慣に従って墓に入れるまではできたようです。しかし、香油で清める時間はなかったようです。その十分にできなかった葬りの作業は、安息日が明けてからということで、あわただしく安息日に入ったのだと思われます。安息日になるとお店はやっていませんから、オリーブオイルも香料も買えません。安息日が明ける土曜の日没になると、ようやく香料を手にすることができます。ですが、もう夜ですから、次の日の日曜日の朝に、婦人たちは墓に向かいます。
墓に向かった夫人はマグダラのマリアとゼベダイの子ヤコブとヨセフの母マリア、そしてサロメです。サロメは、このマルコにしか出てきませんが、イエス様と行動を共にしてきたご婦人の一人です。この3人は、特にイエス様と近い弟子だったことが伺われます。日の出とともに、彼女らは墓に向かいました。そして心配なのは、墓の入口をふさいでいる蓋です。墓の横穴に、大きな円盤状の石が立てかけて置かれています。転がせば動くのですが、婦人3人で動かせるような代物ではありません。しかし墓に着いてみると、石はすでに動かされていました。日曜日の朝真っ先にこの墓に来たご婦人3人の前に、誰も来ているはずがないのにです。
『16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。』 ・・・とあります。
その驚きはすぐに、恐ろしさに変わり、逃げ出してしまいます。その若者は、このように言ったからです。
『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』
この若者は、大事な事を伝言したのですが、恐ろしいと感じた婦人たちは「イエス様が復活した」ことも、「ガリラヤに行くように」との指示についても、誰にも話さなかったのです。
この婦人たちも、イエス様が十字架にかかって、復活することを知っていたものと思われます。しかし、現実にその時を迎えた今、イエス様の死は受け止めて、葬りの準備を続けようとしています。しかし、イエス様の復活については心の準備ができていなかったのです。また、イエス様の復活した姿を見たわけではありません。見も知らぬ若者に言われたことをそのまま伝えることは、婦人たちはしなかったのです。
その日曜日の朝、イエス様はマグダラのマリアの前に現れます。イエス様の復活の最初の目撃者はマグダラのマリアでした。マグダラのマリアは、女性の弟子として、一番弟子であることは間違いありません。ルカにこの記事があって、多くの婦人が弟子としてイエス様の宣教に奉仕していたことが分ります。
ルカ『8:1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。8:2 悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。』
婦人たちは、弟子として仕えただけではなく、経済的に支えたという役割があったわけですが、マグダラのマリアには、さらに新しい役割が与えられました。その役割とは、イエス様の復活を弟子たちに伝えるという大仕事です。その重大な仕事を任されたマグダラのマリアは、使徒たちに派遣された使徒であったといえます。それを任すことのできる最も優秀な弟子は、マグダラのマリアだったのかもしれません。しかし、最初から躓きました。
『16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。』
イエス様から、十字架の死とその後の復活を聞かされていたはずの十一弟子は、マリアの知らせを喜ぶどころか、受け入れなかったのです。十一弟子は、まだ、本当の意味でイエス様を信じていなかったのです。イエス様の復活の予告は聞いて、知識としてはあっても、それが実現するとは予想だにしていなかったからです。
そして、この後イエス様は二人の弟子にも現れます。(この時の様子はルカ24:13-35にあるエマオの道の記事に詳しいです。)この二人の弟子は、クレオパともう一人ですので、十一弟子ではありません。この二人は、イエス様が復活したことを知ると、急遽エルサレムに戻って十一弟子にイエス様の復活を伝えますが、十一弟子は信じませんでした。まだ、その時ではなかったのです。それでも、マグダラのマリアがイエス様の復活を伝えたためでしょう、十一弟子やほかの弟子たちはエルサレムに集まっていました。そこに復活したイエス様に会った二人の弟子が加わります。こうして、十一弟子は、まだイエス様の復活を信じていないながらも、新しく入る情報、復活したイエス様のことを聞いては、その不思議さにとまどっていたのだろうと思われます。
そして、とうとうイエス様が十一弟子の前に現れます。
『16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。』
これで、復活したイエス様が現れたのは、3回目です。しかし、イエス様の復活をその目で見るまでは、弟子たちは誰一人として、イエス様の復活を信じていなかったのです。また、「イエス様が、死から復活した」との証言を信じなかったのです。つまり、イエス様の十字架と復活の予告は信じていなかったし、復活したイエス様を見て信じた人たちの「証」も受け入れなかったのです。十一弟子はイエス様からとがめられました。それでも、誰も何も言いませんでした。何も反論できなかったからです。
イエス様は、弟子たちが「復活したイエス様を見るまでは信じない」ことを、ある程度予想していていたと思われます。それでも、「復活したイエス様のことを見なくても信じる」ことを期待していました。そのために、直接十一弟子に現れる前に2度も他の弟子に現れたのだと思われます。残念ですが、イエス様に直接会うまでは、弟子たちはイエス様の復活を信じることが出来ませんでした。この事実は、伝道をこれから始める弟子たちには、貴重な経験となったのです。
十一弟子は、直接復活したイエス様と会うことができました。しかし、イエス様が天にあげられたあと、再来されるまでは、イエス様と会うことができなくなります。つまり、イエス様がいないなか、弟子たちは伝道をしなければならないのです。その困難な伝道を担うのは、イエス様を見てようやく信じた弟子たちであります。それなのに、弟子たちは、イエス様に直接会うことが無い人々にイエス様を信じる信仰を広めなければなりません。この伝道という十字架を背負っていく弟子たちへの、最後のイエス様の指導であったと思われます。弟子たちは、この出来事によって、自らの信仰の弱さを知ってたいへん悲しみました。しかし、かえって心を燃え立たせることが出来たので、これまで以上に強く立つことができたのです。
イエス様は、弟子たちを咎めるのが目的ではありませんから、イエス様はここで弟子たちに伝道に出るように命令をします。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇(ヘビ)をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』
イエス様は、約束しました。「イエス様を信じれば、イエス様の名によって「しるし」が行われる」。イエス様は、この約束によって、弟子たちの働きを助けたのです。それは、世界中の人々がイエス様のことを信じるようになるために必要だったからです。
こうして、イエス様の復活の出来事によって、イエス様の弟子たちによる伝道活動が始まりました。弟子たちは、多くの国に行って、福音を宣べ伝え、そして「しるし」を示したのです。そして、信じた者には聖霊によるバプテスマを授けました。それは、永遠の命を象徴します。すでにイエス様の十字架によって、私たちの罪は赦されています。私たちは、そのことを信じるだけで、無条件に聖霊によるバプテスマを受け、永遠の命をいただいているのです。
イースターの出来事、イエス様の復活を感謝いたしましょう。