マタイ1:18-23

イエス様の誕生

2020年 12月 13日 主日礼拝

『イエス様の誕生』

聖書 マタイによる福音書1:18-23 


 今日はアドベント第三週です。アドベントキャンドルもこのように4本の内3本がともされました。アドベントキャンドルには、それぞれの一本に名前がありますが、覚えていただいたでしょうか?ただ、これは一般的に言われている事であって、根拠は良くわかりません。第一週は、預言者のろうそく。第二週は、天使のろうそく、第三週は羊飼いのろうそく、第四週はユダの地ベツレヘムのろうそく、そしてクリスマスイブになったら、アドベントキャンドルとは別にイエス・キリストのろうそくを灯します。バプテストでは、アドベント第四週の日曜日にクリスマス礼拝を守ります。その関係から、バプテストでは、ベツレヘムのろうそくと同時にイエス・キリストのろうそくが灯ります。これらのろうそくは、イエス様がお生まれになる事を指折り数えて、待つことを象徴しています。

  

 今日の聖書箇所は、マタイによる福音書から、イエス様の降誕のいきさつの箇所です。このいきさつについては、マタイによる福音書とルカによる福音書にしか書かれていませんし、マタイでも今日の聖書の箇所に限られています。どうして、マルコによる福音書やヨハネによる福音書に降誕のいきさつが書かれていないのかはよくわかりませんが、そのような伝承がまだ無かった時に書かれたか、誰でも知っている事だったかのどちらかであると思われます。そして、マタイによる福音書で初めて、福音書の記事として降誕のいきさつが入っています。これは、マタイによる福音書の著者が丁寧にイエス様のことを伝承しようとして、イエス様の系図から福音書を始めたことにある と私は考えています。イエス様の父は、そしてその先祖は、どのような人だったのか?そして、イザヤ書にこうあります。

イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』。


 この預言がイエス様によって実現したことを、すなわちイエス様がエッサイの子ダビデ王の血筋であることを書き記した。それがマタイによる福音書になります。また、「救い主はベツレヘムで生まれる」との預言を学者たちは言い伝えてきていました。マタイによる福音書より20年か30年くらい早く出来ていたマルコによる福音書には、そのいきさつには全く触れられていませんが、マタイ、ルカと時代が進むにつれて、その伝承は詳しくなっています。これは、昔の預言や言い伝えと、実際にあった出来事を整理した結果だとも言えます。

 

 まず、マリアが「聖霊によって身ごもった」と聖書は語ります。この当時、未婚の女性が子供を身ごもるという事は、大変な事でした。発覚したならば姦淫の罪に問われることになります。姦淫の罪は、石打の刑にかけられ命を落としてしまうほど、重い罪であります。現在では、そのような裁きを受けることはありませんが、そうだとしても婚約者の二人及びそのご家族には、解決が困難な大きな問題であることには変わりはありません。

 ヨセフの立場で考えてみると、ヨセフは何も悪くはないのですから、マリアを訴えることもできます。しかし、ヨセフはそのようにしませんでした。聖書は、「夫ヨセフは正しい人であった」と言っています。ヨセフは、マリアと結婚して夫となっていたのです。そして、ひそかに離縁しようとしていました。そうすれば、マリアも生まれてくる子供も、命を守ることができるからです。それを指して、聖書は「ヨセフは正しい人」と言われたのでしょう。ここでは、ヨセフが「倫理的に」正しい人と言うことになります。


 そこに、天使が現れます。そして、このように言います。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎(たい)の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』


 ヨセフは、天使に言われてマリアを離縁することをやめ、迎え入れました。ヨセフがそのように判断したのは、「神様への信仰」や「マリアへの愛」だったのでしょうか? 残念ながらそのように読み込めるような材料は、聖書には書いてありません。

しかし聖書は、このように語り掛けます。『1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった』。

 これら全てが神様の計画であると聖書は語っているのです。

「マリアが聖霊によって身ごもったのも、ヨセフがその出来事を受け止めたことも、そして生まれてくる み子イエスが救い主となる事も、すべては神様が計画され、そして私たちの罪のために十字架にかけられた事も、すべては、預言されたとおりに神様が行われている。」

 マタイによる福音書の著者は、ここに、旧約聖書で預言されてきた救い主は、イエス様であることを告白しているのです。すべてが神様によって計画され、マリアの夫ヨセフの判断も、神様のご計画の一部であります。 エッサイの根 ダビデの末であるが故に、ヨセフはこのように用いられたのです。マタイによる福音書の著者は信仰によって、旧約聖書の預言とイエス様誕生の出来事の関係をこの様に明らかにしました。

 

 ところで、話は変わります。

イエス様はおとめマリアによって生まれた。こういった処女降誕の話は、実は当時あちこちにありました。具体的に言えば、時の権力者は、権力が強まると、さらにその力を強める目的で、「神」としてあがめられようとします。ローマ初代皇帝のオクタビアヌスがそのよい例かもしれません。神としてあがめられるためには、親が人間では説明がつかなくなります。そういうことで、処女降誕という理論武装で、神の子であると自称していたのです。滑稽な話ではありますが、そういう史実があちこちの国であるものですから、この処女降誕については、いろいろな理解があります。純粋に処女降誕を信じる人もいれば、「科学的にあり得ない」などと批判的に見ている人もいます。

 私の個人的考えを言いますと、本当に処女降誕があったのかどうかはわかりません。というのは、事実であることも証明されていなければ、事実でないことも証明されていないからです。ただし、あり得る事なのかもしれないと思っています。どうしてかと言うと、世の中の全ての摂理を知っているわけではないのが、私たち人間だからです。単純に知識に乏しいのです。ですから、何も説明ができないのです。自分で説明できないことを「科学的ではない」と否定するのでは、考えること、そして信じることによる恵みは得られないでしょう。考える事、信じることをあきらめてはいけません。そして、処女降誕を信じることは、信仰の問題です。また、その出来事がたとえ科学的に説明できないことであっても、それは受け入れることは可能なのです。どうして受け入れることができるのかと言いますと、「実は」私たち人間が科学的に解明できたことは、あまりないからです。私たちの誇る科学ですが、その実態は、多くのことが解明できないままです。それが、何度もきちんと再現する現象をうまく利用すると、良い結果をだせてしまうのですね。その経験と応用を指して、科学的に解明したと「思い込んでいる」だけなのです。世の中の真理、神様の摂理は人が解明できるような単純なものではないことに、怖れをもって感じて欲しいと私は思います。

 

 さて、インマヌエルと言う言葉が出てきました。

イザヤ『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』

この聖句が、今日のマタイのみ言葉に引用されています。

この預言によると、神様ご自身が しるし を与えられるとなっています。しるしと は、何を指すのでしょうか? 奇跡的な出来事、そして神の御業を示されること それがしるしです。このしるしは、信仰を持っている人にとっては、気が付くことですが、信仰を持っていない人には 何の意味も持ちません。また、気づきもしないかもしれません。神様がそこに臨まれたということを示すしるしですから、神様を信じている者こそが、そのしるしに気づく事でしょう。

 預言の時から、イエス様のお生まれになる事は「しるし」であるとされているのです。このイザヤの預言には、しるしは2つあります。

1.  おとめがみごもって、男の子を生むこと

2.  その名をインマヌエルと呼ばれること

インマヌエルとは、『神は我々と共におられる』との意味です。

 

 一つ目の「しるし」は、イエス様の与えられ方を示しています。驚くべきことが起こった。つまり、神様しかできないようなことを人の目の前で行われたのです。それが、しるしです。そして、驚くべき方法でみ子を送ってくださったその結果、神様が私たちの中まで下ってこられたのです。

ですから二つ目のしるしは、イエス様が私たちと共に歩まれることです。それこそが、最も大事な「しるし」なのです。神のみ子イエス様がこの世の人間の姿で与えられて、そして私たちと共に歩みを始められる。これこそ神様にしかできない「しるし」なのです。

 

 そして、このイザヤ書とマタイによる福音書で取り上げた「しるし」は、将来のことへの預言でもあります。イエス様は十字架の出来事の三日後によみがえられました。そして、天にお戻りいなりました。決してイエス様は私たちから離れたのではなく、いつも臨在され私たちとかかわってくださいます。それが、私たちが生活しているこの世界であります。

そして、イエス様が再臨されるときが来ます。世の終わりの時です。そのとき、実現するのは「インマヌエル」の世界です。私たちの知識では、この「インマヌエル」の世界がどのような世界になるのかと、『神は我々と共におられる』その世界について想像を深めても、何もわかりません。それに、それが何時になるかも、わかりません。しかし、その時イエス様は、私たちと共におられるようになるのです。その「しるし」がクリスマスです。イエス様が生まれ、そして伝道をして、何ら十字架にかかるような罪があったわけではないのに、私たちの罪のために十字架におかかりになりました。こうやって、新しい神様の計画が実行に移されたのです。そしてこれこそが、次に行われる「イエス様の再臨」が起こることの「しるし」なのです。信仰をもって、イエス様の再臨を待ち望み、イエス様のお生まれになったクリスマスを一緒に守ってまいりましょう。

 イエス様がお生まれになったのは、「神様が私たちと共にいるため」です。そして、本当に神様と、イエス様と共にいる日を待ち望んでまいりましょう。「しるし」は、信じるものです。証拠を探して証明することではありません。

「イエス様が私たちと共にいてくれる」 その信仰の喜びを周りの人々に届けてまいりましょう。