ルカ16:1-13

神と富 

2021年 9月19日 主日礼拝     

 「神と富

聖書 ルカ16:1-13

ルカによる福音書から「不正な管理人」のたとえ話です。この譬えには、みなさん納得がいかないところがあると思います。不正をした管理人を主人が褒めるわけですから、なにか不正を勧めているように聞こえてしまいます。そういう意味でこの箇所は読み取りが難しいと思います。学者によっては、「借りを棒引きにした分は、この管理人が負担した」と解釈しまして、だから主人から褒められたと説明します。たしかに、矛盾は無くなります。しかしそれならば、その後に出てくるイエス様の『16:9~不正にまみれた富で友達を作りなさい~』という言葉がますますわからなくなってしまいます。

今日の聖書は、8節までは譬えですが、この9節からはイエス様が譬えの解釈をしているところです。つまり、イエス様が教えたかったことは、『16:9~不正にまみれた富で友達を作りなさい~』以下のお言葉なのです。その意味するところを考えていきたいと思います。

その前に、今日の聖書の箇所の前後の物語を説明したいと思います。まず今日の聖書の場面は、15章から続いています。

ルカ『15:1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。15:2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」』

ここから、イエス様が譬えを話し出します。九十九匹の羊と見失った一匹の羊、無くした銀貨、放蕩息子の譬えです。3つとも、失っていたものが戻って来る喜びの物語でした。イエス様はこのように譬えを使ってファリサイ派の人々や律法学者に対して、「罪人こそ迎え入れたい」ことを説明しました。たぶん、納得してもらえたのでしょう。その問答は一通り収まったようです。これに続いて、『神と富に仕えることが出来ない』とイエス様は弟子たちに教えました。今日の聖書の続きを見ると、ファリサイ派の人々はこの言葉を聞いて、あざ笑っているのですね。ですから、今日の聖書の箇所は、金に執着するファリサイ派の人々に、その「不正で得たお金を分け与えなさい」と言ったのではないかとも読むことが出来ます。

しかし、もともとこのイエス様の譬えは、弟子たちに教えたものでした。イエス様が十字架に掛けられた後、弟子たちの生活を考えて、イエス様は「富」のことについてお話ししました。「イエス様が十字架にかかり復活された後の弟子たちのために、財産を共有するように教えていた」とする神学者(F.B.クラドック)もいます。福音書記者のルカは、そのイエス様の意図を知って、何度も富についての譬えを入れたということだそうです。

それでは、譬えの部分を読み取っていきましょう。

 

ある金持ちとは、いくつもの農園を持っている領主だと考えてください。自分ですべての農園を管理することが出来ませんから、管理人を置きます。主人は、町に住んでいてめったに農園まではやってきません。その実務をすべて管理人に任せているわけです。小作人が働いて得た作物を売って現金を得て、そして税金や、使用人の賃金を払って、主人の財産を増やすのが管理人の仕事です。そして、お金に困った使用人や小作人にはお金や油や小麦を貸します。そうすることで、農園を維持するための労働力が維持できるからです。管理人は、主人の財産を自由に運用できますから、金貸しも出来れば、「無駄使い」もできました。それを誰かが主人に告げ口するわけですが、たぶんそれはこの農園の使用人でしょう。贅沢な食事や買い物があれば、すぐ知れることだからです。

この告げ口を聞いた主人は、すぐに管理人を町に呼び出し、こう言います。

『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

 

 管理人が絶望的になったのは、主人は、ほぼ告げ口のとおり管理人が無駄使いしていると考えているようすだからです。そして、管理人を解任するつもりです。そこで、管理人は考えました。

『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

 管理人を首になったら、小作人として働くか、物乞いしかありません。どちらも耐えられないと考えた管理人は、今の立場を使って人に恩を売ることを考えます。仕事を失っても、その恩から食べさせてもらう事ができると思ったのです。

そこで、主人に借りのある者を呼んで、借りを棒引きします。つまり、主人の財産を使って、不正をすることで恩を着せたのですね。油百バトスは2300リットル小麦百コロスは23000リットルです。結構な量です。油とはオリーブオイルのことで、今の市場では1リットル1000円くらいでしょうか?小麦は1リットル48円くらい(860g/ℓ、55214円/t)なので、油が230万円小麦が110万円という金額に換算できます。油の帳消し分が約115万円、そして小麦の帳消し文が約22万円です。このころの一日の給料が1万円だとしますと、それぞれ、帳消しにした分で5か月分の収入だったり、1月分だったりしているわけです。たしかに何日か、その修正をしてあげた人々の家にお世話になれそうです。

 そして、譬えの最後に主人はこのように言います。

『16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。』

この部分が、引っ掛かるところです。よくよく注意してこの箇所を読むと、主人は管理人の不正を褒めたのではありません。管理人の「抜け目のないやり方」だけを褒めています。そしてそのやり方は「光の子ら」よりも賢いということです。光の子とは、イエス様を信じる弟子、クリスチャン、キリスト者を指しますから、弟子たちに向けて、この不正な管理人が弟子達よりも仲間に対して賢いと言われているようです。つまりこの不正な管理人は負債を負う者に「不正による富」を渡して、ごく短い時間でたくさんの友達を作ってしまいました。その友達は、将来頼りになるでしょう。一方で、主人への会計報告を命令されていましたが、管理人はその準備すらしません。それどころか、主人に対して不正をさらに、さらに重ねたわけです。ところで、管理人のしたことと言ったら、小さい借金の棒引きのために多くの負債者に会って、書類を書き替えるという地道で小さい働きを繰り返すことでした。富に仕えるこの管理人は、その小さい事に忠実だったのです。このように小さい事に忠実な管理人は、もっと大きな事を管理することが出来ます。ただ、この管理人には問題があります。富に仕えているのです。富に仕えているから、不正をしました。しかし、不正で得た小さな富を忠実に管理する能力はあるのです。ですから、真に主人に忠実で主人に仕えるのであれば、この管理人には大きなことを任せることが出来るのです。ですから、管理人の主人はその素質と言うか、やり方を褒めたのです。もちろん不正をすることは悪いことですが、その不正で得た富を使って困っている人を助けたのであれば、天に宝を積むことになります。つまり、真(まこと)の主人である神様の御心に沿ったことだと考えられます。この不正な管理人は、富に仕えていましたが、いまここで富に仕えることから解放されたのだと考えて良いでしょう。

振り返って弟子たち同志は、そのころ何を考えて、論争していたかと言えば、「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」(ルカ9:46,22:24)という事でした。「名誉」が欲しかったのでしょう。イエス様は、そういった様子の弟子たちに、この「富の奴隷であった管理人の方が、大事な天の国の仕事を任せるには、抜け目がなくて賢い」と言われたのです。

なぜなら、富に対して忠実に仕えていた管理人は、その不正な富を使って、友達となる者を助けたからです。その手段は褒められたものではありませんが、短期間に効果がありました。たしかに、ずるくて賢いやり方でした。しかし、このとき不正な管理人は、富を得る事よりも友を助けることを選ぶことが出来たのです。このことから、管理人は神様に仕え始めたとも考えることが出来ます。

 

 さて、9節以降が、イエス様がこの譬えを解説した部分だと説明しました。この9節が大変理解に苦しむところです。

『16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。』

 

富(マモン)という言葉には、不正による富と言うニュアンスがもともとありますが、シリアあたりでは、お金そのものを指すそうです。

また、イエス様は「不正にまみれた富」(不義のマモン)と表現されていますので、イエス様は、「富」と「不正にまみれた富」を区別しているようです。「不正にまみれた富」があるのならば、「真(まこと)の富」もあると思いますが、その言葉は出てきません。実は、11節には原文で「真(まこと)の富」と書かれているのに、「本当に価値あるもの」と新共同訳では意訳されているからです。

そのため、整理をしましょう。富には「不正による富」と「真(まこと)の富」があって、「不正による富」とはお金等を指しているということです。そこを修正すると11節はこの様になります。

「だから、お金について忠実でなければ、だれがあなたがたにまことの富を任せるだろうか。」

イエス様は続けられます。

『16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。』

すべてのものが神様のものであるという立場で見ると、私たちは管理人でしかなく、所有者ではないのです。そして、他人の管理している物も神様が所有しています。ですから、「神様の所有しているものに対して忠実(ギリシャ語:ピストスπιστός :信仰する、信頼できる)でなければ、だれもあなた方に与えることは無い」ということだと読み取れます。イエス様の弟子たちは、信徒の捧げもので生活することになるわけですから、誰に対しても誰の管理しているものに関しても忠実でなければなりません。イエス様は、弟子たちが「誰が一番偉いか」などと論争している様子から、「誰にでも、神様に仕えるように仕えなさい」と注意されたのだと思います。

 

 今日は、富に仕えた管理人の譬えから学びました。私たちは、イエス様の召使です。私たちは富に仕えるのではなく、イエス様に仕えています。

『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』とイエス様は教えられました。この譬えで、主人は神様、そして管理人は私たちを指しています。富の中で最も小さなものがお金です。そのお金を忠実に友達のために使えば、最も大きな富である永遠の命が与えられるのです。神様に仕えるとは、イエス様に祈って、み心を知ろうとすることです。そうしたならば、イエス様は必ず私たちを天に宝を積むように導かれます。イエス様を信頼し、そしてイエス様に祈って 導かれてまいりましょう。