ルカ1:26-38

主が共におられる

202年12月1日 主日礼拝

 主が共におられる

聖書 ルカによる福音書1:26-38

アドベント第四週です。ろうそく5本に火がともっています。今日は、ベツレヘムのろうそくと、真ん中のイエス様のろうそくに火を灯しました。そして、金曜日にイブ礼拝を迎えます。


今日の聖書は、「マリアへの受胎告知」として有名な個所です。先週は、エリサベトへの受胎告知でしたが、その6か月後に同じ天使ガブリエルが、ナザレの町にやってきました。

聖書には、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされた」と、さりげなく書かれていますが、家の血筋はイスラエルの民にとってとても大事なことです。そして、エッサイという名のダビデ王の父親に関して、こう予言されているからです。

イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』

このように、ダビデの家に救い主が生まれることが、預言され、人々に信じられていました。

天使はマリアのところに来てこのように言います。

『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』


今日は、クリスマスということで、神様のみ子が生まれるという、めでたい出来事を記念して礼拝を守っています。残念ながら今年も、昨年に引き続きコロナ禍のなかで、例年のようなお祝いのムードにはなりにくいです。

それでも、この天使がマリアに告げた言葉は、どんな災難や悲しみや苦しみの中にある人にも、届けたいメッセージです。


 それは、「普通の女性であるマリヤが神様の恵みにあずかった」ということです。マリヤよりももっと、立派な家で育ち、教養もある女性は、ほかにたくさんいたと思います。それがよりによって、ナザレというガリラヤの田舎の町のごくありふれた女性が選ばれたのです。

神様の子を宿すという大いなる恵みにあずかり、救い主の母として選ばれた女性は他にはいません。神様は、ごく普通の小さき者を、救い主の母としてお選びになったのです。これが恵みです。この女性を顧みて主の母として選び、この女性の信仰を通して全世界、全人類を救おうとされました。ここに神様の救いの御計画があります。


実は、全人類の救いは、このおとめマリヤの信仰にかかっていたのです。マリアが、この受胎告知を拒むのではなく、信仰をもって受け入れました。そのマリアの信仰を通して、すべての人が救いに与れるようになったのです。もちろん、マリアを選んだのは神様です。全ては、神様のご計画のもとに、クリスマスの出来事が起こりました。そして、ヨセフも神様が選んだ正しい人でした。ヨセフとマリアはいいなずけの関係ですから、受胎したマリアのことをヨセフは訴えることができます。しかし、ヨセフは訴えませんでした。もし、訴えるとマリアは石打の刑となってしまう恐れが強いからです。ヨセフは、この母と子を守ることを優先したのです。このような行動をとったヨセフも、やはり神様から選ばれていたのです。ヨセフもダビデの家の出ではありますが、普通に大工をしている人です。イスラエルの大工は、家を建てるような目立つ仕事でも、お金もうけができそうな仕事でもありません。この国では、石工が石を積んで建てた家にあわせて、建具を作るといった零細な職人が大工なのです。そんな、特にとりえもない男を神様はお選びになりました。

そして二つ目に届けたいメッセージは、「主があなたと共におられる」というみ言葉です。何のとりえもない、マリアを神様は選ばれました。それは、神様が私たちすべてに、かかわってくださる証であります。神様は、立派な女性を選ばれたのではありません。そもそも神様は、人を分け隔てされないのです。そして、どんなに小さい人のことでも、神様はその御用のために用いられるのです。そればかりではありません。神様はいつも私たちと共にいてくださっています。


神様が共におられるという安心を、私たちクリスチャンはいただいていますが、神様が共におられることで、悲しいことや災難がなくなると言うことではありません。その悲しいときや、災難の時にも神様は寄り添ってくださるのです。そして、神様はいつまでも私たちに寄り添うことをやめられないのです。一方的に、神様は私たちを愛してくださっているからです。


さて、このすばらしい恵みの知らせを受けたマリアは、戸惑いました。ヨセフと婚約中ですから、これから何が起こるかを考えると、心配なことばかりです。ですから、このガブリエルの知らせを彼女はにわかには受け入れることができませんでした。「戸惑い、考え込んだ」とあります。

さらにマリアは男の子を産むと告げられると、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言いました。そんなこと「ありえません」という反論です。信じられないようなことを天使ガブリエルが告げたのですから、これはだれでも致し方がないことです。唐突に、信じがたいことを告げられ、そして告げられた通りになるならば、「はい、そうですか」とはいくわけがありません。戸惑うだけではなく、抵抗のために反論もするし、将来の恐れや不安を抱くはずです。

しかし、天使は妊娠6か月となったエリサベトの例を挙げて、

『神にできないことは何一つない。』と説明します。

エリサベトは不妊の女といわれ、そして年を取っていました。とても子供が授かるようには思えません。しかし、その奇跡のようなことを神様は起こしました。エリサベトの妊娠のことを知っているマリアは、「神にできないことは何一つない」との天使のことばを聞き、受け入れ信じたのです。


38節に「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」とあります。マリアの信仰は素晴らしいですね。彼女は、もしかしたら自分の人生が土台からなくなるかもしれない、一生、孤独に生活するしかないかもしれないという恐れや不安はありました。それでも、彼女はこの天使ガブリエルのメッセージを信じたのです。同時に「主があなたと共におられる」との言葉のとおり、マリアには平安がやってきました


マリアのこの信仰は、一方的な神様のご意思に対する応答でありました。自分の身の上に起こるだろうことへの不安、そして世間がそして夫が受け入れてくれるかどうかの不安がありました。でも、まず最初に、この御言葉を受け入れる。これがマリアの持っていた信仰によるものです。私たちはよく、信じる事をためらっては、「わたしの不安を全部拭い去ってくださるなら信じます。」というような態度をとってしまいがちです。それは、理性的であると同時に、ずるいのかもしれません。自分にとって良いことが起これば、神様を信じて、都合が悪いことが起こると、神様のほうを向くのをためらうわけです。しかし、マリアの信仰はそうではありませんでした。自分にとって良いと思われることも、よくないと思われることも、一緒に受けとったのです。都合によって信仰を選ぶのではなく、信じているから、神様のみ言葉を全部受け入れたのです。だからこそ、最初に天使はこう告げました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共にいます。」

マリアは、信じて受け入れ、それに従うという結果を神様は最初から知っておられたのです。


このマリアの信仰があってこそ、神はマリヤの胎に、聖霊によって御子イエス・キリストを授けられたのです。「神にできないことは何一つない」と天使が言いましたが、そうだとしても、大変不思議な御業であります。聖霊によってということは、男性の介在なしに御子が生まれたわけです。私たちの知識では、説明ができないことですが、この御業が起こったことを事実だと私たちクリスチャンは信じているのです。このクリスマスに起きた奇跡は、時には、「ありえないこと」と指摘されて「非科学的」とも言われるでしょう。しかし、神様は「ありえないこと」をもなされるのです。神様は、天地創造のときに、何もないところから人を作り、命を吹き込んだお方なのです。その神様が、私たちを愛するがゆえに、私たちに救い主イエス・キリストをお降しになりました。このご計画によって、私たちには救い主であるイエス様がいつも、共にいてくださるのです。そのために、人であり神であるイエス様の誕生の奇跡の出来事は必要でした。また私たちは、十字架にかけられたイエス様の犠牲によって、罪が許され、イエス様を信じる信仰から永遠の命を約束されています。こうして、神様の愛は、マリアの信仰とイエス様の十字架の出来事を通して、私たちに福音として伝わりました。2000年のときを超え、人々がこのクリスマスの奇跡を信じたがゆえに、そして多くの国の人々がイエス様を信じたがゆえに、今、ここでクリスマスを記念した感謝の礼拝が守れるのです。


このようにマリヤの信仰によって、私たちもイエス様の十字架の救いにあずかることができました。そして私たちも、神様の恵みによって、マリアと同じ信仰の道を歩む者として下さいました。これもまた恵みです。クリスマスは、この神様からの一方的な恵みを受ける時です。私たちはその恵みを受け取るときに何の条件もありません。神様からの恵みですから、ただそれを受け取るだけでいいのです。そしてクリスマスの喜びを受け取りつつ、イエス様をお降しになった神様に感謝し、賛美いたしましょう。