ローマ8:18-30

聖霊の助け


被造物:創造物、生き物(何もないところから創造されたもの)κτίσις 

神の子たち:神の息子たちυἱῶν θεοῦ (クリスチャンのこと)

8:19の訳が不適切なので直訳→ 被造物(人間)への切なる期待は、神の子たちの現れることです。

霊、御霊:風、精神、呼吸πνεῦμα(聖なるとの形容詞がつくと聖霊をさす なお霊と"霊”の原語は同じ)

※原語では、聖霊と御霊は厳格に区別して使われていません。そもそも聖霊と御霊は同じ神様の霊を指すのですが、聖霊は新約からイエス様を信じる者に降り、御霊は旧約で神様から選ばれたものに降りました。

虚無:虚栄心、空虚、非現実、無目的ματαιότης(人は自分の意志ではなく無目的に服従しています)

1.苦しんでいるパウロ

 『8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。』

 パウロだけではなく、人々は今、産みの苦しみを味わい、うめいていることがわかります。しかし、18節では、将来の栄光を考えると取るに足らないと思っているようです。人々がクリスチャンに生まれ変わるように待ち望んでいますが、人々は神様によって造られたものであり、自分の意志でこの世に生まれたわけではありません。従って、無目的に生きていますが、神様に服従することに希望を持っています。なぜなら、人間も神様のご意思で、滅びへの道から解放されて、クリスチャンとなる栄光に与れるからです。人々だけではなく、聖霊によって果実(初穂)を頂いたわたしたちも、神の子となるすなわち養子縁組されること(肉の体が解放されること)を心の中でうめきながら待ち望んでいます。この希望こそが、パウロとその仲間たちを救っているのです。見えるものに対する希望は、実際手に入れて楽しむときに、それはすでに希望では無くなります。もし、私たちに見えないことを願うならば、忍耐してそのために待ちます。いいえ、私たちは、再臨も死者の復活も見ない事にします。そうすれば、その見ていないものが、価値のあるものとして、満足のいくものとして、そして最大の喜びで受け取られるでしょう。これは、それを待つ私たちがそれを信じ、それに対する関心が高く、そしてその時を待ち望んでいるからです。

2.聖霊が助ける

 聖霊は、すべての信者のいのちの源として宿ります。信者にとって「養子縁組した父の霊」でありますから、神の子となったことを聖霊が証言します。

 パウロは、私たちの中の別のうめき声、「私たちの体の贖いの養子縁組」について話しました。そして彼は、希望に満ちていると言います。その体の贖いを実現することに、それぞれのクリスチャンの心が向けるべきであり、祈りがあるべきです。しかし、その祈りすら私たち自身の力では不可能であると私たちに確信させられています。そこに、『わたしたちに語られる聖霊の助け』があると確信するのです。

 悲しみは、多くの言葉よりもすすり泣きと涙で十分に語ることができます。愛は、目の光と手の握りでそのことを告げます。同じように、クリスチャンの心の奥底からのうめき声は、多くを語っています。そして、口に出ない言葉をもって、声として受け止めてくださるのです。聖霊は、私たちのうめきをも執り成してくださっているのです。

 人の心を見抜く方である神様は、聖霊の思いも知っています。聖霊は、神様の御心に従って信じる者のために執成すからです。『御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く』これは、この構図による働きです。

 もちろん、祈りはいつでもどこでも誰でもするものですから、絵には描き切れません。代表して一信徒の祈りがどう伝わるのかだけを取り出しました。聖霊がとりなし、具体的に私たちに働きかけます。神様は御心をお示しになり、そして「しるし」をお示しになるのです。全ての事が、そしてすべての人々が益となる。そんな「しるし」となるでしょう。ここで、パウロはイエス様のことを言っておりません。しかし、イエス様を通して神様にお祈りするわけですから、そしてイエス様への信仰によってイエス様がとりなしたので、私たちは義とされています。そのことは、8章に入る前にパウロは伝えていることですから、本来は、この図にイエス様が入るべきところです。あえて書けば、信徒に一番寄り添ってるのがイエス様なので、聖霊と信徒の間にいることになります。(父なる神と子なるキリストと聖霊は一体であるとの三位一体論は、パウロの時代にはまだありませんでした。三位一体でありながら、父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではない。そして、それぞれ役割があって、協力し合って働きます。)