マタイ19:1-15

離縁について


 1.離縁について教える

 

問い「どんな理由でも、夫が妻を離縁することは、法にかなっているでしょうか?」

答え:「 二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」


問い「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」

(参考)申命記『24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。』

答え:イエス様はこの様に答えられました。「モーセは頑なな態度を見て、妻を離縁することを許可したのであって、もともと離縁を認めているわけではない。」 つまり、イエス様は「離縁は認められない」との立場を取っています。


問い:『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」』

答えだれもがこの命令を受け入れられるのではなく、この命令を与えられた者だけである。」』

  

 ファリサイ派の人々は、モーセの命令を使って、イエス様を試そうとしました。「事情が事情だったならば、離縁状を書いて渡して、そのあとに離縁しなさい。」との趣旨でした。しかし、字づらを都合よく切り取ると、「離縁状さえ出せば、離縁してかまわない」と読めるわけです。

 そこで、ファリサイ派の人々は、離縁することは、法にかなっているでしょうか?と聞くわけです。律法の精神は、自由な離縁を認めているわけではありませんが、やむを得ない時の手続きとして離縁状を出すことで、特別に許可するという事です。そこに付け込んで、ファリサイ派の人々は、「どんな理由でも離縁状さえあれば離縁できますよね? モーセの律法通りにすれば離縁は何時でもしてよいですよね!」と、仕掛けたわけです。離縁してよいとイエス様が答えたら、「律法の精神は離婚を認めていない」と反論したでしょう。そして、イエス様が、「離してはいけない」と答えたので、「モーセは、離縁状さえ出せばよいと言っているじゃないか?」と、予定通りのやり取りだったのでしょう。

弟子たちは、真意はわかりませんが、「離婚できないならば、結婚のリスクが高い」と思ったのでしょうか? 結婚しない方がましだと言います。イエス様は、それに答えて言いました。「離婚してはならない」との言葉は、神様によって与えられます。そして、命令されたものだけ、「受け入れなさい」と。

 

2.子供を祝福する

 

弟子たち、この子供たちを連れてきた人々を叱りました。このような物語は18章にもありました。弟子たちは、子供ではなく、子供たちをつれてきた人々を叱ります。子供の頭に手を置いて祈ってもらいたい。それが子供たちを連れてきた人々の願いです。たぶん、子供たちは我先にイエス様の前に出てきたのではなく、大勢の人々をいやされているのを遠巻きに見ていたのでしょう。そして、最後のチャンス。イエス様がそこを立ち去るときに、ようやくイエス様の前に出られる時がやってきたのだと思います。しかし、弟子たちは子供たちが嫌いなわけではありませんが、もう立ち去ろうとしている関係で、子供たちを連れてきた人々を叱ってしまいます。

『19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。』


子供たちを連れてきた人々の願いはかないました。子供たちの信仰は、その連れてきた人々の信仰がそのまま表れたことでしょう。子供たちにとって、大事でお世話をしてくれている人々が尊敬し、信じるイエス様。その子供たちを連れてきた人々のイエス様への信仰は、子供たちに、丸ごとそっくり受け入れられたのだと思います。