マタイ22:34-46

 最も重要な掟

  

 

1.最も重要な掟

 

 ファリサイ派の人々は、サドカイ派の人々が「だれの妻となるのですか?」との質問で、イエス様に言い込められたことを知ります。実際に、ユダヤ教の教えについては、サドカイ派より上と自負しているようなファリサイ派の人々は、イエス様を試そうとしていろいろ知恵を出し合ったのでしょう。律法の専門家(サンヒドリンに常駐しているような最上級の律法学者を指すと思われます)は、律法の中でどれが最も重要かを聞きます。本当に試したのでしょう。たぶんモーセの十戒の一つが答えられることが予想されます。そして、律法をすべて守らなければならないという立場のファリサイ派の人々ですが、そこに優先順位があることは自明のことです。

 

申命記『6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

 

レビ記『19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』

  

イエス様は、この二つを最も重要な掟と言いました。律法:モーセ五書(創世紀、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と預言者(イザヤ書等)、つまり諸書を除く旧約聖書は、この二つの掟に基づいているのです。また、マルコの記事は、マタイとほぼ同じですが、ルカによる福音書10:25-28では、律法学者の方がこの二つをそらんじているように答えていますので、ファリサイ派の人々の間でもこの答えが、共通の見解となると思われます。

 

やはり、これは試しと言っても、まだひねった質問をしたのではなく、沢山の試しのための入り口だったと思われます。

 

2.ダビデの子についての問答

 

 聖書には書いていませんが、先ほどの最初の質問に始まって、色々ファリサイ派の人々はイエス様に聞いたのだと思います。あくまで試すと言う意味で、です。そして、イエス様は先ほどの様に完璧にお答えになったのでしょう。いつまでも、問答が終わりません。そこで、イエス様は、逆にファリサイ派の人々に質問をします。

 

『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』

 

ところが、ファリサイ派の人々の『ダビデの子』との答えが、間違っているとイエス様は指摘します。そして、その理由は、ファリサイ派の人々が思いつきもしないような知恵をもって、解釈されたのです。そして、だれも反論できませんでした。

ファリサイ派の人々は、もう、質問をしても無駄だ、歯が立たないと思ったのだと思います。以後ファリサイ派の人々は、イエス様に質問をしなくなりました。

 

イエス様の参照した聖書の箇所は、詩編です。


詩編『110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』

 

ダビデが詩編の歌を歌った時には、「主」と呼ぶべき人間はいませんでした。ダビデにとっての主とは、ヤーウェぐらいしか存在しえないのです。主の言葉の主は、ヤーウェを指します。ヤーウェが、「わたしの右の座に就く」ように言うわけですから、王の右に王子が座る習慣から言って、神の子であり、王子であるメシアであることが明らかなわけです。つまり、ダビデがヤーウェとメシアの間の会話を聞いていたという事です。

 そしてダビデは歌にしたとき、メシアのことを「わが主と」呼んでいました。つまり、メシアはダビデの子ではなく、主なのです。そして、メシアはダビデが存在する前から、ヤーウェと一緒に存在していたのです。

 

サドカイ派の人々を言い込めたイエス様です。このファリサイ派の人々との問答でも、その知恵を示されました。