マルコ4:10-12,21-34

み言葉を実らす

2023年 2月 5日 主日礼拝

み言葉を実らす

聖書 マルコによる福音書 4:10-12,21-34          

  今日はマルコによる福音書から、イエス様のたとえのお話です。聖書は2箇所から取りました。4章10節から12節が、たとえで話す理由についてです。この前後には、イエス様の「種をまく人」のたとえと、その解説があります。そして、今日の聖書箇所の2つ目の部分です。マルコは一つの話題を二か所に分けて、間に別の話題を挟みこみました。ですから、今日の聖書箇所は一体の話題です。

 「種をまく人」のたとえは、ガリラヤ湖畔でイエス様が群衆に教えたものです。その群衆が解散したのでしょう。そこには、イエス様と12弟子とそのほかの弟子たちがいました。そのほかの弟子と言うのは、例えばマルコのように12弟子には数えられていませんが、イエス様と同行していた人たちです。イエス様のたとえ話の意味が分からなくて、12弟子以外の弟子たちはイエス様に聞きました。質問は本来2つありました。一つは、なぜたとえでイエス様は話をするのか?ということです。そしてもう一つは、「種をまく人」のたとえの示している意味です。イエス様は、直接弟子から聞かれなくても丁寧に説明しました。そして、33,34節をみますと、このように書かれています。

『4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』

 この福音書を書いたマルコは、「聞く人々にあわせて、たとえを話されている」こと、そして「弟子たちの質問があれば、イエス様は説明していた」ことを補足しています。

 「種をまく人」のたとえで、み言葉の種をまいているのは、イエス様であり弟子たちです。そしてその種は群衆にまかれているのですが、「良い土地」である「聞く力」をもった人にみ言葉を蒔くと、その種は育つのです。イエス様は、そのたとえについて、種の結末について説明をしました。

「道端に落ちて、人に踏みつけられ、鳥が来て食べてしまった種。」

「石だらけで土の少ない所に落ち、根がないために枯れてしまった種。」

「茨の中に落ちた種。すると茨が伸びて覆いふさいだ。」

み言葉を育てることを邪魔しているのは、サタンであり、艱難や煩いであり、そして色々な欲望であるとイエス様は、意味を弟子たちに説明しています。

このような説明で、弟子たちが納得したのでしょうか?少なくとも、わたしたちには良くわかりません。特にわからないのは、たとえについてのイエス様のこの説明です。

『4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」』

ここに「」書きで引用されているのは、イザヤ書です。

イザヤ『6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。』

 さて、この箇所を読んですっきりするでしょうか?多分、弟子たちも、わたしたちと同じように困惑したのではないかと思われます。少しだけイザヤ書を解説しますと、ここに出てくる『この民 』とは、預言者イザヤが言う汚れた唇の民のことです。唇は、言葉を象徴しています。人の心が唇を通して汚れた言葉として出てくると言えます。イザヤは、神様(セラフィム)との接触の中で、唇を触れられ、この時罪を赦されました。イザヤは、神様との接触の中で、イザヤ自身の心が汚れていることに、気づかされたのです。

 イザヤは、聖なる神様と罪ある人間との違いを思い知らされます。イザヤは礼拝を守る中で神様に触れ、自分が、罪に破れ、醜い、悲惨で、汚れた存在であることを認識しました。イザヤは罪人ですから、神様がその罪を赦してくれなければ、神様に近づくことができません。そして、赦されるためには、罪の自覚が必要だったのです。聖なる神様の声を聞いていたイザヤは、自分の罪の重さを知りました。そして、その罪を神様が赦されたのです。その時、イザヤは、「預言者としての使命を託された」ことを知ります。その神様からの使命は、民を頑なにすることでした。

イザヤ『6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」』

 この言葉は、悔い改めの呼び掛けではありません。ここでイザヤが神様から託されたのは、滅びへの預言でした。これを預言して心に残るのは、「よく聞け、よく見よ」とのメッセージであります。イザヤはそこで神様に聞きました。

イザヤ『6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」。』

 つまり、バビロン捕囚で国を失う時まで、イザヤはイスラエルの人々を頑なにする役割を担うことになります。しかし、イザヤは、これを断ったり嫌がったりはしてしませんでした。なぜなら人々は自らの罪を知り、神様との関係を回復する必要があります。そのためには、徹底的に罪を知ること、そして神様の聖さに対し、私たちの唇は、そして心は汚れていることを自覚しなければなりません。

 この神様からの使命は、イザヤにとって、むしろ「慰め」となりました。悔い改めない民にみ言葉を語り続けているイザヤは、知ったのです。聞く耳を持たない絶望すべき「この民」も、救いたい との神様の意志を・・・です。イザヤ自身、何度も何度も神様の言葉を聞くことによって、そして神様を礼拝し神様との関係が回復することによって、心が汚れている自分に気が付きました。ですから、何度話しても理解できない「この民」にも希望を持つことが出来ます。理解できず、悟らず、悔い改めないほど、私たちはその心の汚れのひどさに気が付くでしょう。こうしてイザヤは、神様の言葉に耳を貸さない「この民」に対して、「神様が導いてくださる」との希望をもったのです。

 そして、イザヤは「救い」を預言しました。こう書かれているからです。

イザヤ『6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である』

 これは、国が見捨てられた後に、残された切り株から、救い主が登場することを告げるものです。

 イザヤのこの記事を知っていたとしても、イエス様のたとえを理解することは簡単ではないですね。それでも何度も何度も聞いているうちに、わかる時が来ると希望を持ちましょう。イエス様はその時をお待ちになっています。その学びの機会として、弟子の教育のためにもイエス様は「たとえ」を使ったのだと思います。決して、たとえを使ったから わかりやすいとは限りません。むしろ困惑することもあります。しかし、もともとわたしたちのは、この目で見て、この耳で聞いたことでも、理解できないことが多いのです。私たちは、心が聖くはなく、そして頑なだからです。まだ、良い土地となっていないのです。み言葉と言う種を受け入れ、豊かに実るほど、私たちの土地は整ってはいません。ですから、きちんとみ言葉が根着く土地になる。そういう必要があるのです。イエス様のたとえが分からなくても、自分の土地を耕しながら、み言葉を聞き続けることに意味があります。すぐには、わかることが無いかもしれません。でも、私たちの土地である「心」は、み言葉を聞いていくなかで、自身の罪に気づくからです。そして、その気づきに時間がかかればかかるほど、その悔い改めは大きなものになるでしょう。その神様の導きによってこそ私たちは、変えられ、神様の聖さの中に導かれるのです。


 さて、これに続く「ともし火」と「秤」のたとえです。私たちは、自分の目でしっかり見ようと、灯りを使います。その光で良く照らさないと何が起こっているのかを見ることは出来ません。ですから、光の当て方も工夫したり、「秤」つまり自分の基準を代えてみなければ、何も気づかないのです。と言うのは、イエス様のみ言葉や信徒の証を聞いても、気が付いて、意味を理解しなければ、信仰が育ちようが無いからです。信仰とは、教えてもらったことそのものではなく、教えや証を霊的に理解し、そして確信したことです。イエス様のみ言葉も、聞いただけでは、そのまま忘れ去ってしまいます。だから、すでに知っているみ言葉も忘れ去るでしょう。一方で、心でみ言葉を受け止めた人は、イエス様からの恵みを多く受け取ることになります。神様ご自身が、そのみ言葉を育てられるからです。信仰は、人が育てるのではなく、神様が育てるのです。

 次に「からし種」です。この種は、きわめて小さなものであります。虫眼鏡でないと見えないくらいの小さい種ですが、ガリラヤでは空の鳥が巣を作るような木のように大きく育ちます。最初は、小さな種であるイエス様のみ言葉ですが、大きな収穫をもたらすのです。しかし、それは私たちの心と言う良い土地を得たときの事であります。かたくなで岩のような私たちの心が変えられて、その小さな「からし種」を受け入れるならば、木のように大きく育つのです。


 このようにイエス様は、続けてたとえを話しました。弟子たちが理解しようとして聞いたからです。そして、イエス様は、聞かれたこと以上に、その本質を説明します。冒頭でお話しました33,34節の言葉はその教えを聞いたマルコの付け加えた説明であります。

『4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。』


 「人々の聞く力に応じて」と、あります。しかし、これは直訳すると「聞けばわかるように」であります。一方で、今日の聖書の箇所がそうであるように、弟子たちがわからなかった「たとえ」もあります。イエス様の説明では、すべての人がわかりやすいようにとの配慮しながらも、弟子教育のためにも、律法学者を頑なにするためにも、目的に応じて「たとえ」を使ったのです。

 今日のイエス様の教えは、「み言葉を実らす」ための一つが、私たちの心だということでした。み言葉に対して「どうしてだろう」と疑問をもち、そして素直にイエス様に聞いてみる。そうして、祈ってイエス様のみ言葉に心を向けることで、神様はそのみ言葉を育ててくださるのです。新らしい発見、気づき、そして信仰がそこに与えられます。わからないと投げ出したくもなりますが、み言葉を聞き続ける事によって、必ずそのみ言葉を神様が育てる。そう信じて、毎週の礼拝や、感話会での交わりで、み言葉や証に耳を傾けてまいりましょう。