ルカ22:47-71

 裏切られ、捕まる

 

1.裏切られる

 

 ユダが群衆の先頭に立って、イエス様に近づきます。そこには、大祭司、大祭司の手下、祭司長、神殿守衛長、長老たち。昼間は、神殿で教えているイエス様ですから、いつでも会うこともできれば、いつでも捕まえることも可能なわけです。それなのに、闇に紛れてイエス様を捕えに来るとは、祭司長たちはまるで夜盗のようです。どちらも武器をもってきています。実際に大祭司の手下はイエス様の弟子に耳を切られました。この流れでは、すぐに切り合いになりそうですが、イエス様はそれ以上の手出しを禁止します。そして、その耳を癒します。

 イエス様に従うと公言したイエス様を愛している人々に裏切られる。これほど、イエス様が辱められ、悲しいことはありません。イエス様はここで、憎むのではなく、善を行うという模範を示しました。憎むよろも前に、神様の導きを求めるべきです。キリストは神様が導いた今の戦いが成し遂げられるまで、その勝利を御旨を受け入れ、その時を喜んで待ったのです。


2.イエスを知らないと言う

『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』


イエス様のこの予告が、現実のものとなりました。捕まっても、イエス様について行くつもりのペトロでしたが、いざとなると意気地がありません。最初は、遠く離れてついて行って、大祭司の家につくと、焚火を囲んでいる人々のなかに座り込みました。すると、すぐに見つかります。

「この人も一緒にいました」⇒「わたしはあの人を知らない」

「お前もあの連中の仲間だ」⇒「いや、そうではない」

「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」⇒「あなたの言うことは分からない」

このとき、鶏が鳴きました。

大祭司の家にもぐりこんだ時は、得意げだったでしょう。しかし、様子を覗うだけで、何もできません。そして、3度もイエス様の仲間であることを指摘され、否定をしました。自分の身を守るためです。どこまでもイエス様について行こうと思ったように、行動出来なかったのです。そして、イエス様の予告通りになってしまいました。ペトロは、情けなさ、悲しさで、イエス様について行こうとの気力が続きません。そして、外に出て泣きました。


3.暴行を受ける

見張りをしていたのは、大祭司の手下でしょうか? もしくはローマ兵や神殿守衛の可能性があります。最高法院にかける前ですから、まだ有罪ではありません。しかし、彼らは最初からイエス様を死刑囚として、なぶりものにしました。これは、イザヤの預言が成就したことを示します。

イザヤ『50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。』


4.裁判を受ける

『「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」』

このイエス様の言葉が、あまりしっくりきません。直訳してみると、「あなたがたはそれを言う、なぜなら私は居るからである」となります。居る(存在する)と訳したのは英語で言えばbe動詞ですので、単に「私です」と訳するのが適切だと思われます。

私訳『それから彼らは皆、「では、あなたは神の子ですか?」と尋ねました。彼は彼らに答えました、「あなた方の言うとおり、私は神の子です」。』

大祭司たちは、イエス様の神性から、神の子であると知っていました。そして、直接イエス様に聞いてみたのです。イエス様を信じていなかったからです。そして、神の子であるとの返事をもらっても、彼らはイエス様を信じませんでした。そして、予定通り死刑にするために、「神の子であると言ったこと」を罪として、裁いたのでした。