ミカ書4:1-4

もはや戦うことを学ばない

 

 ミカという預言者が書いたとされているミカ書から学びます。ミカについては、紀元前8世紀ぐらいの預言者だということぐらいしかわかっていません。ちょうど南ユダ王国がアッシリアの侵攻に悩まされていた頃の王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活動しました。

1.イザヤとの関係

ミカの活躍時期は、イザヤと重なります。ミカのほうは、故郷であるモレシェト地域の預言者でしたが、イザヤは南ユダ王国の宮廷預言者でした。イザヤ書には、今日の聖書個所とよく似た部分があります。どこかにイザヤとミカの接点があるかもしれません。イザヤもミカも、ユダヤの王であるメシアが来ることを予言していますし、アッシリアによる侵攻という困難に当たっていましたので、北イスラエル王国の滅亡と同じような南王国の滅亡を預言しながら、「メシア」の来られることの希望をも、語ったのです。

イザヤ『2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。』


2.終わりの日

 「終わりの日」や「その日」と書き表されているのは、「メシアの王国がやってくる日」をさす決まり文句だそうです。主の神殿の山とは、アブラハムがイサクをささげようとしたモリヤの山(創世記22:2)であり、ソロモンが神殿を築いたモリヤ山のことです。その神殿のある丘のことをシオンと呼んでいました。(のちには、シオンはエルサレム全体をさすようになります。)

 主(ヤハウェ)は、終わりの時になると、律法は神殿の丘(シオン)から、み言葉はエルサレムから出ます。すると、多くの国の国民が主の山に向かいます。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」

こうして、主の山は、終わりの日とされるメシアの王国ができるときに、より高められ、世界の山で一番高い尊敬を集めるのです。

 しかし、ミカ書にはこの4章の直前に、シオンは滅びることが書かれています。

ミカ『3:12 それゆえ、お前たちのゆえに/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。』

どこか矛盾しているように見えますが、一度破壊されて、そして新しくよみがえることを預言しているのです。ですから、「終わりの日」には、廃墟であった街が世界中から人々が集まる街に生まれ代わることを予告しているのです。


3.平和の約束

『4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

4:4 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。』

 このようにして、「終わりの日」が来ると、主(ヤハウェ)は多くの民の争いをさばいて、強い国が弱い国を虐げないように、強い国を戒めます。すると、地上での戦争がなくなり、剣や槍はいらなくなります。そして、いらなくなった戦争の道具を打ち直して(鍛造し直して)鋤と鎌を作って、農業に専念することができます。「終わりの日」がやってくれば、国と国は戦うこともしなくなり、そればかりか戦う準備もしなくなります。そういう世界を主(ヤハウェ)は、約束されたのです。

ぶどうの木の下、イチジクの木の下 は、セットで使われます。ぶどう と いちじくの実りの下にいるわけですから、平和で豊かな収穫を思い浮かべる事でしょう。「終わりの日」が来ると、人々は自分の畑で、ぶどう や いちじく を木の下から眺めるでしょう。平和がやってきたのですから、何も準備しなくとも危害を加える者がいないのです。そういう世界がやって来ると、万軍の主は約束されたのです。