使徒8:26-40

エチオピアの高官

   

フィリポは、7人の執事の一人です。聖霊がイエス様の弟子たちに降っていましたから、フィリポには聖霊が共に働いていました。そんなフィリポに神様からの命令が下ります。

『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』

エルサレムにいたフィリポに対して、ペリシテつまり、現在のパレスチナ自治区のガザの町に行くように命令が出ました。ガザは海の道と呼ばれるエジプトとアジアを結ぶ街道(Central Ridge Road)にある町です。エジプトにはほかのルートもありますが、この宦官は馬車に乗っていますので、起伏のない道を選んだと思われます。

この宦官は、フィリポの聖書の解き明かしを、そしてイエス様の証を聞いて、すぐにイエス様を信じ、そしてバプテスマ(洗礼)を受けます。するとフィリポは、神様によって30kmほど北のアゾトの町に飛ばされます。要約するとこのようなエピソードです。


さて、カンダケです。誰の事かご存じでしょうか。 現在のスーダンにあった古代メロエ王国の女王の称号だそうです。この宦官は女王の財産を管理していましたので、その取引のために、外国に出ていたと思われます。そんな関係で、外国に住むユダヤ人の様に、年に一回エルサレムに礼拝に来ていたと思われます。(キリスト教ではペンテコステ、ユダヤ教では5旬祭、7週の祭り)そして、その宦官は国に帰るその道すがら、イザヤ書を読んでいたようですので、神様を信じている人だと言っても良いでしょう。神様は、この機会をつかってフィリポを宦官に引き合わせました。


宦官が読んでいた聖書の箇所は、イエス様の十字架を預言したところです。

イザヤ『53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。』


宦官は、誰のことを預言しているのかがわかりません。そこに、フィリポが追い付いてきて、声を掛けたわけです。

フィリポは、イザヤの53章を使って、イエス様のことを話しました。そのイザヤ53章の前半、つまり宦官が読んでいた箇所の前です。

イザヤ『53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。・・・』

 

フィリポは、このイザヤ書に書かれていることを自らイエス様と共に体験しました。そして、その体験を通してイエス様を信じています。イエス様の十字架と復活の出来事に立ち会ったことで、このイザヤ書がイエス様の預言だと確信を持っていたのです。その確信と聖霊の働きによってフィリポは力が与えられ、イエス様の証をしたのでした。

そのイエス様はこの53章で犠牲になることが、預言されているのです。

旧約聖書の時代では、罪を犯した人の贖いのために傷のない動物を犠牲として奉げ、神様に執り成しをしました。伝統的に、ユダヤの人々は生贄を捧げることでその罪を贖いました。その生贄に、ユダヤの王となられるはずの救い主がなるとは、とても考えられませんでした。

だから、このようなイエス様の死を知る群れは、『わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか』と驚きを抱くのです。

 

ユダヤの人々がそれまで知っていた救い主の姿は、身の丈があり、容姿も良く、健康で頑健な姿だったのでしょう。そして、全てが栄光に満ちた繁栄をもたらすというものだったと思われます。その様な姿をしている「ユダヤの王」なる人が自分たちの救い主になるのがふさわしいと彼らは考えていたのです。しかし、十字架の時「救い主らしい面影のない」イエス様は、わたしたちの病を負い、わたしたちの罪のために打ち砕かれ、私たちの背きのために刺し貫かれるという、すべての苦難を背負われました。そのイエス様が背負われた苦難によってこそ、わたしたちの罪が赦され、そして、わたしたちの痛みをいやされるのです。このことは、私たちを愛してくださる神様がご計画されました。神様は、神の子イエス・キリストをわたしたちの赦しと癒しのために、生贄としてこの世にお降しになったのです。・・・そしてイエス様は、そのことを受け入れて下さり、わたしたちの罪のために十字架に掛けられたのです。イエス様は、わたしたちの罪を背負いになったまま、わたしたちの罪を一緒に十字架に掛けてしまわれました。そうして、わたしたちの罪は許されたのです。