ローマ12:9-21

 神の愛によって

2020年 8 1日 主日礼拝  

神の愛によって』  

聖書 ローマの信徒への手紙12:9-21 


ローマの信徒への手紙から、「愛」についてです。ヨハネによる福音書21:15-25にペトロがイエス様から『わたしを愛しているか』と三度も問われたところがあります。その箇所でヨハネは、神様の愛と友情の愛の違いを私たちに伝えています。今日の聖書「ローマ人への手紙」は、AD56年ごろに書かれたと言われていますので、今伝えられている4つの福音書はまだ完成していませんでした。しかし、イエス様の伝承や福音書の元のテキストはパウロも聞いたり読んだりしていましたので、イエス様の「愛」に関する教えをパウロは十分に理解していたものと思われます。特に、福音書記者ルカと伝道旅行を共にしていることから、パウロはイエス様の伝承を豊富に読むことが出来たと思われます。福音書記者ルカは、ルカによる福音書、使徒言行録を書いた人ですが、その編集のために多くのイエス様の伝承を聞いて記録していたからです。そのおかげでしょう、パウロはイエス様とほとんど接触が無かったのですが、イエス様の教えを良く知った上で、この手紙を書いたこと思われます。また、その福音書記者ルカがパウロと同行したことから、パウロの書簡がルカによって多く残され、そしてこのパウロの手紙が福音書より先に、多くの教会で読まれたのです。

さて、冒頭にお話しました、『わたしを愛しているか』に関してですが、ヨハネによる福音書では、2つしか愛が出てきませんでした。日本語では、「愛する」とは、かわいがる、恋する、好みのものに親しむ、かけがえのないものとして大切にする、気に入ることを指します。広い範囲の感情を示すわけですが、新約聖書が書かれたギリシャ語には、「愛する」という言葉は、4つの言葉で使い分けされます。

それは、アガペー(αγάπη)、フィリア( φιλíα ) 、エロース(έρως)、ストルゲー( στοργή )です。

アガペーはイエス様の無条件の愛、フィリアは友情の愛、エロースは恋愛の愛、ストルゲーは家族の愛です。そのなかで、ヨハネによる福音書に使われているのは、無条件の愛アガペー と、友情の愛フィリアだけであります。そして、今日の聖書の愛には、3つの言葉が出てきます。

 

その一つ一つを取り出してみましょう。

『12:9 愛(アガペー:「イエス様の愛」)には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、12:10 兄弟愛(フィラデルフィア:フィリア「友情の愛」+アデルフォス「兄弟」=「兄弟愛」)をもって互いに愛(フィリヨストルゴス:フィリア+ストルゲー=「愛情深く:副詞」)し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』

直訳すると

「イエス様の愛には偽りはありません。悪を嫌い善なる立場から、主にある兄弟たちを深く(家族のように)愛し合いなさい。そして、相手を互いに優れた者として、尊敬しなさい。」

となります。19節にも愛が出てきますが、話しているのが神様ですから、アガペーの愛が使われています。

 

こうしますと、「イエス様の愛には、偽りや悪意が無い」のだから、「イエス様の愛は、完全な形で私たちに働きかけてくださる」と理解して良いでしょう。私たちにできないことではあっても、イエス様の愛によって、何でも実現されます。

「主にある兄弟たちを優れた者として尊敬し、家族のように深く愛する」この愛は、私たちから出る愛、すなわち友情の愛や家族の愛です。私たちは愛することが出来るときもあれば、そうでないときもあります。しかし、そこにイエス様の愛、アガペーの愛が働けば、偽りや悪意は消えます。そして、より深く愛することが出来てきます。しかし、そのためには、イエス様に依り頼んで祈る必要があります。私たちは、決してイエス様の愛、アガペーの愛を持っているわけではないのです。イエス様の愛の業に見倣おうとしても、それができない自分に落胆してしまう事があると思います。

今日の聖書の箇所の表題には「生活の規範」とあります。キリスト教では、確かにこのような道徳と言いますか、教訓話と言いますか、そういう性質のことをお話することがあると思います。しかし、それ自身はキリスト教の中心ではありません。道徳的であることについてアメリカの神学者の書いた本の記事を紹介したいと思います。

N.T.ライト「クリスチャンであるとは」(あめんどう) この中の                               

【7章イエス-神の王国の到来】 からです。

 

『キリスト教は、実際に起こったことに関する事である。

 

別の言い方をすると、キリスト教は道徳的な新しい教えについてではない。イエス様に最初に従った人々の生活を変えてしまった道徳的教えを否定するのではないが、それは、大きなストーリの中に含まれるものである。

キリスト教は、道徳的な模範をイエスが示しているのではない。私たちに必要なことは、その愛と献身をイエスに見出し、まねることだと言うのでもない。実際ある人たちの生活は、イエスの真似をすることで、確かに替えられた。しかし、それは同時にうまく真似をすることが出来ない自分に落胆させられる。』

 

それでは、キリスト教とは一体何についてなの?とお思いになるでしょう。

ライト先生は、沢山の示唆を書かれていますが、この一言で説明しています。

『「見つけ出し、救い出し、新しいいのちを与える」というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることに他ならない。』

 

今日の聖書には、沢山の道徳的な指示がありますが、このライト先生の言葉からすれば、道徳はキリスト教の目的ではありません。もし「守るのが義務だ」という風に道徳の視点だけで聞いてしまうと息苦しくて、そして多分それを守ることが出来ない時、落胆してしまうでしょう。だからと言って、道徳的な話を避けるわけにはいきません。キリスト教はイエス様を信じることによって、成し遂げられた出来事に関する事ですから、物語の中には道徳的なことが含まれてしまいます。しかし、これはイエス様を信じる過程において起きた出来事をお話しているのであって、道徳的なことを目的としたものではありません。目指しているのはイエス様の愛によって、起こった出来事を信じる事。それこそが、私たちの目的です。

 

パウロは、キリストを信じる者が愛を保つことを目的に、数多くの指示をしました。私たちも同じように「こうしなさい」と言い合うことがあると思います。その際、私たちの中にある常識から、つまり、「成功」や「失敗」の経験に基づくアドバイスをすることが多いと思います。その中には、「期待に応えられて満足している」とか、「規則を破って秩序を乱した」など、「こうすべき」、「してはならない」という期待があると思います。ある意味、「こうすべき」と言う事で、人を縛っているし、自分自身も縛られていると言えます。そして、そこには息苦しさがあります。「こうすべき」という事で縛り、そして縛られるからです。  

一方で、神様の愛を実践した結果は、「こうすべき」と言う事の様に縛られることはありません。また、「やらなければならない」とか「こうでなければならない」などと考える必要もありません。あるとしたら、神様の愛によって私たちの心が動かされた事実と、「やってあげたい」そして「こうしてあげたい」と考えて、行動した事実だけです。その思いを持って祈る時、私たちの心の中にはイエス様の愛が入ってきます。そして聖霊が、私たちを導いてくださるのです。このようにイエス様の愛によって、 キリスト者として信徒を愛することや家族への愛は、最も強められます。そして、イエス様の愛は、お互いに尊敬する心を齎してくださるのです。

 

パウロは、イエス様の愛について語った上で、道徳的な行動をお勧めします。もちろん、道徳的な行動は目的ではありません。イエス様を信じ、そして、イエス様の愛の中にあるように祈って求めるならば、イエス様の愛が与えられた結果、パウロのお勧めした行動をとるだろうという事です。

『12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。』

 

私たちには簡単ではありませんが、パウロは、私たちがイエス様の愛の中にある行動をとることを信じて、お勧めしたのです。

 また、パウロは19節で復讐について、申命記を参照します。

申命記『32:35 わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。』

 神様は、私たちが復讐しなくて良いように、報復をしてくださいます。ですから、私たちは復讐から解放されているのです。私たちの復讐は、神様に任せてしまえば、もう復讐のためにあれこれ考えて悩むことは無いのです。そして、素直にイエス様の愛を行えるように祈っていけます。

 

 また、パウロは、箴言を使って、この様にお勧めします。

箴言『25:21 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。25:22 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。』

この言葉で、「炭火を彼の頭に積む」と言うところが、何を言っているのか解りません。調べてみると、古代エジプトにあった習慣に基づいて書かれた表現のようです。

「何か罪を犯した人が、その罪を悔いるとき、(あるいはその赦しを受けたとき)その改心、悔い改めの気持ちを表すために、燃えた石炭を入れた鉢を頭に乗せた」のだそうです。これに補足すると、詩編に『140:10 わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。140:11 火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。』と言う、神様に向かって敵への報復を願う詩があります。この訳では火の雨となっていますが、その火の雨を象徴しているのが燃えた石炭です。

 

この詩は、神様に報復を願って「火の粉を振り注いでください」と歌ったものです。ですから、今日の聖書の箇所でいう「人の頭の鉢に火のついた石炭を積む」とは、直接その人に報復するのではなく、火の粉を降り注ぐ準備のために炭火はつみあげておくという事を指します。そして、火の粉を注ぐかどうかを決めるのは神様の意思なのです。つまり、火の粉を降り注ぐかどうかを神様に委ねているわけです。

このことからパウロが言っている、「報復は神様に委ねなさい」ということです。仕返しをするのではなく、飢えているならパンを、乾いているならば水を与えなさい。そうしたならば、「この人は自分の罪、自分の至らなさを神様の前に悔い改めるだろう」という事です。もし私たちが、神様に報復を委ねないで、「悪をもって悪に報いる」ならば、このような神様の愛の恵みは遠のいてしまいます。しかし、善意をもって、そして神様の愛を行うならば、私たちはイエス様の恵みの中にあるでしょう。

 

イエス様の愛は隣人に仕えるものであり、たえず隣人を助けようとするものです。パウロが勧めた一連の「こうすべき」事は、私たちがイエス様の愛の中にあってこそ、実現する事なのです。イエス様はこの愛に責任を取ってくださいます。私たち人間が自分の愛の行動に対して取れる責任には、おのずと限りがあります。しかし、イエス様は、私たちがイエス様から与えられた、御言葉や福音について愛の行動を少ししかとれなくても、全くできなくても、イエス様は責任を取ってくださいます。イエス様の愛に信頼して、イエス様の愛を担う機会を祈って参りましょう。