出エジプト記12:21-27 

の晩餐

2022年102日主日礼

「主の晩餐

 聖書 出エジプト記12:21-27

   今朝は、出エジプト記の過ぎ越しの記事からみ言葉を取り次ぎます。過ぎ越しの祭りは、ユダヤ教の行事で最も重要なものです。年に一度キリスト教でいう受難日の日没からが過ぎ越しの祭りになります。過ぎ越しは一晩で終わりますが、同時に除酵祭が一週間続きます。この2つの祭りは、モーセがエジプトの民を導いて脱出したとき、神様がエジプトの全ての初子を撃ったことから始まっています。

『12:29 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、12:30 ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。12:31 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。12:32 羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」

12:33 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。12:34 民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。』

 このようにエジプト脱出の時、イスラエルの初子は撃たれなかったこと、神様によって守られたことを記念して、過ぎ越しの祭りが行われています。そして、エジプトを脱出するときに、パン生地を発酵させる時間もないまま出発したことを記念して、除酵祭が行われています。キリスト教では、過ぎ越しの祭りと同じ日が受難日です。また、イエス様の復活を記念して日曜日に礼拝をすることから、過ぎ越しの祭りも除酵祭もイースターにとりこまれました。と言うのは、初期のキリスト教徒は、過ぎ越しの祭りをしていたからです。その過ぎ越しの日をイースターとして祝うようになったそうです。だいたい4世紀ぐらいになって、イースターの日が統一(金曜日から日曜日に)され現代のようになったとされています。つまり、キリスト教は、過ぎ越しの祭りに代えてイースターを、そして安息日に代えて日曜日の礼拝を守っているのです。

 エジプトでは、イスラエルの民が奴隷として使われていました。創世記によりますと、ヨセフがファラオの夢解きをしたことから、エジプトの宰相となり、食料の備蓄を始めました。7年の豊作の後、7年の飢饉があるとの夢解きの結果だったからです。この飢饉は、エジプトだけではなく、広くカナン地方にも及んだものです。食料を蓄えていなかった他の国は、充分な蓄えのあるエジプトに頼りました。エジプトに住む人々すべてが、土地をファラオに売って食料を手に入れたものですから、すべてがファラオのものになってしまいました。それが、イスラエルの民族がエジプトで奴隷になっていた理由です。 

 しかし残念ながら、この聖書の物語と歴史を突き合わそうとしても、何時のことなのか、どのファラオなのかもわかっていないのです。なぜかというと、エジプト側にイスラエルの記録がないからです。記録がない理由については、いろいろな学者が諸説を述べています。例えば、事実出エジプトの出来事はあったが、民族の大移動ではなく、小規模なものだった。とか、エジプト15,16王朝の出来事だった。と言う説があります。小規模な人々の移動であれば、記録があるわけもないですね。それと、15、16王朝は、文字を持たないシリア・パレスチナ系のヒクソスのであったため、絵しか残っていないのです。蛇足ですが、世界最古の一神教は18王朝のファラオであったアクエンアテンが初めました。息子のツタンクアメンがそれを廃止していますから、ユダヤ教は、これよりも後にできたのだろうということです。実は、モーセは紀元前16世紀か13世紀に活躍したとされていますから、もし、16世紀であれば、ユダヤ教が最古の一神教となります。一方で、モーセが書いたとされる最初のトーラー(律法)ができたのも、紀元前13世紀とされていますから、モーセの時代は紀元前13世紀より前だということは言えます。

【アクエンアテンが紀元前1353年? - 紀元前1336年? 在位して宗教改革をしたことから、明らかに紀元前14世紀のことです。また、聖書に出てくるラムセス2世(ラメセス:町の名前として出てくる)は、前1279年 - 前1212年。】

 と、言うことで、エジプト脱出の記事は歴史としての裏付けがありません。そして、意外と聖書は新しいものだということですね。ヘブライ文字ができたのは紀元前10世紀。ヘブライ文字の元となったフェニキア文字が紀元前14世紀にできていますから、最初のトーラー(律法)は、口伝だったということになります。

 さて、過ぎ越しの祭りですが、ヒソプを使います。ヒソプと言うのは、植物(シリアンオレガノ)で、刷毛として使います。羊の血を塗るのために、ヒソプの束を鉢の中の血に浸します。そして、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗るわけですが、その血がしるしとなって、災いは入り口を通り過ぎてくれたわけです。全イスラエルの民、70万もの家で、このことが誠実に行われたわけです。そして、エジプトの家では、初子を失うなかで、イスラエルの家の初子は守られたのです。

 この出来事を記念して、過ぎ越しの祭りを行うわけですが、実際に何をするかと言うと、過ぎ越しの祭りの日は安息日でもありますから、何もできません。やってよいことと言えば、シナゴーグで礼拝することと、家で食事をすることだけですね。パン種つまりイースト菌を使わないで焼いたパン。これは、せんべいのように焼かれます。また、苦菜を食べます。苦菜とは「オランダからし」のことで、普通わたしたちはクレソンと呼んでいます。急いで脱出したから、パン生地を発酵させる時間がなかったので、種入れぬパン(マッツァー)を焼いて食べる。そして、エジプトでの苦難を思い出すために苦菜を食べるわけです。もちろん、子羊を屠りますから、子羊の肉とぶどう酒で食事をします。この祭りが、キリスト教の主の晩餐の元になっています。

 イエス様の時代は、みんな集まって過ぎ越しの食事をしていました。イエス様と12弟子たちが守った最後の晩餐も、過ぎ越しの祭りの食事であります。今では、主の晩餐式は礼典と言う位置づけで、みんなで食事をとるという習慣ではなくなってしまいましたが、パウロの書簡などを見ると、安息日の礼拝の後にパン裂き(主の晩餐式)と食事をしていたようです。バプテストをはじめとしてプロテスタント教会は、月に1回程度、主の晩餐式を守りますが、教会によっては、毎週守られます。目で見る説教と言いましょうか?信仰の証として主の晩餐式を捉えるならば、毎週やってもよいのかもしれません。イエス様は、最後の晩餐で、過ぎ越しの食事に特別な意味を付け加えました。パンをイエス様の体、ぶどう酒をイエス様の血であるとイエス様は宣言したのです。神の小羊であるイエス様は、その晩餐のあと祭司長たちにつかまり、最高法院とピラトの裁判を受け、十字架にかけられました。そして、3日目に復活し、私たちに救いをもたらしたのです。過ぎ越しのときに屠られる子羊のように、イエス様が犠牲になることによって、私たちを災いから遠ざけられました。そしてイエス様の福音は、私たちを信仰に導いてくださいます。その神の小羊であるイエス様の体を食べ、そして神の小羊の血を飲むことによって、私たちはイエス様が一度死んで甦られたこと、そして、私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださったことに感謝し、イエス様を信じているその信仰を告白するのです。

 聖書には、主の晩餐という言葉が、1コリ11-20にだけ出てきます。英語では、主の晩餐式のことをcommunion(信仰の仲間、親交、主の晩餐の意)と呼びますから、「信仰を共にする」ことと「主の晩餐式」は同一の言葉であります。主の晩餐式を信仰の証として受け、神様に感謝をささげ、そして、信仰の友と交わる。このこと全体が主の晩餐式communionであります。私たちの教会では、信仰を言い表してバプテスマを受けた方に、パンとぶどう酒を配ります。また、信仰を持っていらっしゃらない方には、お配りはしていません。その代わりに、共に主の晩餐の席にいてもらって、私たちの信仰の証を見ていただいています。目で見る説教と言われるように、この主の晩餐式に、私たちの信仰が表されるからです。教会によっては、他の宗派の方には配らないところもあれば、礼拝に来た人すべてがパンとぶどう酒に与るところもあります。どれが正しいのかと言うことではありません。それぞれの教会の信仰によって判断してきたことです。

 経堂バプテスト教会の場合は、信仰告白の7章に「礼典」について、記載されていますので、関係する部分を読んでみましょう。

『~バプテスマが教会の交わりに入る ために不可欠の礼典であることを信じます。主の晩餐は,パンとブドウ酒を用いて主の贖罪の愛を記念して行う礼典で,主が再び来りたもう時まで,信仰においてくりかえされる礼典であることを信じます。』

 経堂バプテスト教会の信仰告白から言うと、ここに書かれている「教会の交わり」を狭い意味のcommunionと理解すれば、「バプテスマを受けていない人が、主の晩餐式に与ることができない」との解釈できます。もし、礼拝出席者全員が主の晩餐に与れるように望むなら、信仰告白の礼典にかかわる部分を見直す必要があるでしょう。もちろん、皆さんが一致して必要だと考える場合に限ります。

 モーセがイスラエルの民を導いて、エジプトを脱出したときを記念した過ぎ越しの祭りです。イエス様と弟子たちの最後の晩餐は、その過ぎ越しの祭りでの食事でした。パウロがこの時のイエス様の言葉に基づいて書いた、主の晩餐の制定の言葉です。

 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」  (一コリ11:23~26)

 パンは、イエス様の体を象徴しています。イエス様は、神様であるのに肉体を持ってこの地上に下ったことを記念するものです。そして、イエス様がこの地上で私たちの罪を引き受けてくださいましたので、私たちの罪は赦されたのです。そのことを感謝し、そしてパンを頂きます。また、ぶどう酒は、十字架で流されたイエス様の血を象徴しています。イエス様の流された十字架の犠牲によって、私たちは救われ、永遠の命を頂くことができるとイエス様が約束してくださいました。私たちはそのイエス様の約束を信じます。ですから、感謝してイエス様との契約のしるしとして、ぶどう酒を頂くのです。そして、忘れてはいけません。パウロの言葉によると、主の晩餐は継続して与るものであります。そして与るたびに「イエス様が私たちの罪のために、私たちの罪を背負って死なれた」ことを告げ知らせなければなりません。イエス様が再臨されるまで、福音を告げ知らせなさいとの命令です。私たちは、イエス様が再臨されるときまでに、世界中の人に福音を伝えるという、命令を頂いております。主の晩餐式に与るたびに、感謝をもって祈り、そして福音を語る勇気と元気を頂きましょう。