ローマ5:12-21

 神の恵み

2021年 10月 31日 主日礼拝

神の恵み

聖書 ローマの信徒への手紙 5:12-21           

  ローマの信徒への手紙は、AD56年ころパウロの第三回伝道旅行の時にコリントで書かれたとされています。将来、ローマに伝道に行くことを希望していたパウロは、ローマにいるイエス様を信じる人々のために、イエス様の教えを書きました。このころはまだ、新約聖書は成立していませんし、旧約聖書でさえも律法と預言者は整備されていましたが、現代に伝わるような旧約聖書は存在しませんでした。

(1世紀になって、エジプトのファラオの命令でギリシャ語による70人訳聖書が編纂されるまで、旧約聖書はなかったのです。この70人訳聖書の編纂にはイスラエルの12部族がそれぞれ6人の学者が加わりました。72人ですが、きりの良い70人訳と呼ばれています。)

そういう事情から、パウロの手紙は、礼拝で説教代わりに読まれていました。

 

今日の聖書の箇所は「このようなわけで」で始まります。

パウロは、救い主キリストによってもたらされた希望や神様との和解を語ってきました。そこに、人の罪と死について語ります。

『一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。』

一人の人とは、創世記のアダムのことを指しています。最初の人であるアダムが罪を犯したので、死が世に入り込みました。そして、アダムの子孫もすべての人が罪を犯したので、死から免れなかったことを指しています。

パウロは、「罪人」の意味を理解してもらうために、ここで罪のことを説明します。なにしろ、聖書のことを良く知らない信徒に向けて手紙を書いていますから、なぜ私たちもあなた方も罪人なのかを説明しなければなりませんでした。私たち日本人もそうですが、いきなり「あなた方は罪人だ」と言われたら、犯罪もしてもいないのに何で「罪人」呼ばわりするのか?と反感を持つはずです。パウロは、ユダヤ人ならば当然知っている創世記から、説明する必要があったのです。人間は生まれながら根源的な罪を背負っています。それは、神様が人間を造られたとき、すぐに人間に入り込んでしまったことです。それ以来、何千年たっても、人間は神様の前に罪を犯してきました。罪とは、犯罪の事ではありません。神様を知らないこと、神様の命令に従わないことがキリスト教で言う「罪」です。広辞苑によりますと、罪とは、①神の禁忌をおかし、その報いを受けるべき凶事。②社会の規範・風俗・道徳などに反した、悪行・過失・災禍など。また、その行いによって受ける罰。③刑罰を科せられる不法行為。法律上の犯罪。④仏教・キリスト教で、その教法を破る行為。あるいは、その人の背負っている罪業。⑤悪いことや行いに対する自覚、もしくは責任。⑥無慈悲なこと。思いやりのないこと。とあります。かなり広い範囲を指していることがわかります。逆に言うと、現代の私たちが「罪」のことを、犯罪等に偏って理解しているのかもしれません。それだけ、私たちは刑罰の対象とならない罪や無慈悲なことについて、関心が薄いのだと思われます。しかし、聖書が取り扱うのは、これらのすべての罪です。特に神様を知らないこと、神様の命令に従わないことは重大な罪であります。

 最初の人であるアダムは、神様の命令に背いて、『園の中央に生えている木』の果実を食べてしまいました。これが、人類初めての罪です。罪を問うためには、誰かが罪と定める必要があります。法律が無ければ、罪に当たるかどうかを判定できないからです。そういう意味で、モーセが神様から頂いた十戒や、モーセ五書と呼ばれる律法が与えられたことによって、罪とは、どのようなことかが文書化されたと言えます。そうしますと、アダムからモーセの間の時期は、律法はありません。その間は、「神に背く罪」しかなかったわけです。しかし、アダムからモーセの間の人々には、必ず死が訪れました。罪を犯したはずもない、赤ちゃんにも死は訪れたのです。アダムは、それだけ大きな影響をこの世にもたらしました。アダムの罪によってこの世には、死が入り込んでしまい、だれもそこから逃れることはできません。この大きな影響力によって、やがて来られる救い主の死が、この世の全ての人の永遠の命に係わりました。アダムとイエス様、その真反対の関係ながら、その影響の広さと大きさは似ています。  

神様は、アダムの罪を通して、イエス様が十字架にかけられ、私たちの罪を贖うことを予定されていた。・・・パウロは、このように考えたのです。

 パウロは、アダムとイエス様を対比しました。なぜなら、アダム一人、たった一人の罪によって人はみな死ぬものとなったように、イエス様一人の恵みによって、全ての人に恵みが注がれることが約束されたからです。そして、この恵みはアダム一人の罪にだけ有効なのでも、アダムの罪だけが赦されるのでもありません。一度イエス様の恵みが働くと、私たちの罪まで、そして何度罪を犯しても赦されるのです。

 こうして、神様によって赦されている人々は、イエス様を通して生き、罪と死に打ち勝って生きるようになるのです。ですから、アダム一人の罪によってすべての人が死という判決を受けたのと同じように、イエス様の正しい行いによってすべての人が「義とされ、永遠の命を得る」ことになったのです。たった一人が神様に不従順でした。そして、その子孫のすべてが罪人になってしまいました。それと同じように、イエス様が神様に従順であったがために、その罪人たちが義しい者とされるのです。

 パウロはこの様に、イエス様による罪の赦しを教えました。ところで、ここで言う罪とは、律法を守らないことではありません。その辺を、パウロは、このように説明します。

『5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。』

確かに、律法ができると、その条文が増える程 罪とされる行為が増えていきます。そして、それが読み切れないほどの量になると、ほんの一握りの人しか罪に相当するかどうかを判断することはできなくなります。ですから、律法を学んだ人は人々を指導していました。それも事細かにであります。しかし、残念ながらそのような努力があっても、律法は守られなかったのです。律法を守る人々もいましたが、それは律法の字面だけだったりします。つまり、細かく、細かく、書いていることを守りますが、その一番大事な律法の精神のところが抜けているので、「律法を守る事がかえって罪」な状態にもなっていたのです。イエス様は、そのことを指してこの様に教えています。

マタイ『22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。

22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』(マルコ12:28-34)(ルカ10:25-28)

 

 「神様を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」この重要な掟をもとに律法が与えられていました。パウロ自身、ファリサイ派の出身であり、律法をしっかり守って生きてきました。ですから、パウロは自分のことを罪人とは思っていなかったでしょう。しかし、パウロは、かつてキリスト教迫害の先頭に立っていました。当時のパウロは、時として律法を守らないイエス様の弟子たちのことが、罪人に見えたのでしょう。しかし、パウロは変わりました。イエス様に出会ったのです。律法を強要し、暴力を振るってきたパウロは、自身が罪人であることに気づいたのですね。・・・パウロは律法を守ることを大事にしてきましたが、「神様を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」との最も重要な掟については、罪をおかしていたからです。しかし、パウロは言います。

『5:20~罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。』

 

パウロは、律法を守ろう・守らせようとすることで、自身の罪が増していることに気づきました。それがイエス様に出会って、罪に気が付いたのです。そしてそのときには、すでにパウロの罪は赦されていました。ですから、パウロは、罪深かったがゆえに、より多くの恵みを、イエス様を通して受け取っていたのです。罪が、死をもたらしたように、神様の恵みが、義をもたらしました。そして、主イエス・キリストを通して私たちに永遠の命を導くのです。

 

パウロは、今日の聖書の箇所で、自身が赦されたことを創世記と結びつけて、証ししています。アダムは、全人類を代表していますので、アダムの罪は私たちが生まれながら持っているものです。そういう意味から、アダムは歴史上実在した人物でなければなりません。アダムが、罪をこの世に入り込ませた役割を担ったからです。アダムが実在してこそ、その役割が果たせるわけです。ところが、天地創造からアブラハムの間の聖書の物語は、おとぎ話や神話として読み取って「実際に起こった事ではない」と考える人は多いと思います。確かに、聖書は歴史書として正確な記録を取ったものではなく信仰の書でありますので、そのままうのみに出来ない記事もありますが。実際に起きたことを、信仰と大きな歴史観のもとに書かれたものと考えることが出来ます。パウロは神話として創世記を読みとっているのではなく、歴史的事実として読んでいると言えるでしょう。そういう意味で、パウロは、人類の最初に起こした罪と、当時起こったイエス様の十字架の出来事を対比したのです。パウロは、このようなことを教えます。「アダムは実在の人物であり、そのアダムの罪が原因で我々にはいずれ死がやって来る」と。そして、イエス様の十字架による恵みは私たちに永遠の命を齎すのです。

 このパウロの説明の前提には、「神様が万物を創造した」「神様が全歴史を支配している」というユダヤ特有の世界観があります。また、アダムの物語を知っていなければ、わからないと思われます。もしかして、ローマの信徒たちは理解できなかったかもしれません。しかし、パウロの証しとして聞いたならば、「イエス様の十字架の死によって、私たちの罪は許されたとパウロが信じている事」は、しっかり伝わったのだと思います。

 

 このアダムとイエス様の対比は、私たちと神様との契約関係にもあります。私たちは、第一週の日曜日の礼拝に集って、主の晩餐式を守ります。主の晩餐式で、神様との契約を新たにするためです。私たちは、アダムの子孫として罪の心を受け継いでいます。ですから、事実、主イエス・キリストのものとなっている私たちの心の中には、まだ罪が残っているのです。その罪を悔い改めて、神様との契約を毎月新たにします。そして、赦されて主の晩餐に与ること、すべての人をイエス様は招かれようとしている事に感謝するのです。また、アダムの時代から神様はこの私たちを赦し、罪から救うために壮大な準備をされていることに驚くばかりです。イエス様が来られた恵みに多くの人々が与れるように、この恵みを私たちの傍にいる人々に伝えていきましょう。神様は私たちを証し人として用いてくださいます。そして、ますます神様は私たちを恵みを与えてくださいます。