ルカ8:19-25

 湖を静める

 

 1.イエスの母、兄弟

 イエス様の家族ですが、父がヨセフで、早い時期に亡くなっていると推定されています。そして兄弟姉妹ですが、マタイとマルコを合わせ読むと、イエス様にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ及び妹2人と思われます。ヨセフが早くから死んでいたと言うのは、推察にしかすぎません。言えることは、イエス様が12歳の時まではヨセフは生きていることだけです。

ルカ『2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。』

これ以降の父ヨセフに関する記事はありません。すくなくとも、イエス様の公生涯で母マリアは登場するのに父ヨセフが登場しないので、イエス様が30ぐらいになる前に、亡くなっていたのだろうとの推測であります。

 イエス様は、カファルナウムを本拠地に伝道していました。家族はナザレに住んでいましたから、約一日かけて、カファルナウムにやってきました。さて、何をしに来たのでしょう?。イエス様のお話を聞きに来たわけではないことは、この文脈からわかります。もし、信仰心からの訪問であれば、同じ兄弟姉妹として扱われるからです。そうしたならば、他の要件とはなんでしょうか?母マリアが息子2人以上を引き連れてくる用と言ったら、イエス様を連れ戻すということなんだと思われます。

ルカ『4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

』この記事から見ても、イエス様の伝道活動はナザレあたりでは受け入れられておらず、その評判を知っている家族がイエス様を引き戻しに来たものと思われます。

 イエス様のところに来たイエス様の母と兄弟は、群衆に阻まれて、イエス様のところに近づけません。そこで人を介して、この場所にやってきていることを伝えます。その時のイエス様の反応はと言うと、歓迎とは程遠いものでした。

『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』

イエス様は、血のつながりの家族よりも、「神様につながっている人たちこそ神様の家族である」として、大事にすべきだと教えられたのです。


2.突風を静める

 

『8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。』

 ガリラヤ湖は、大きい湖なので、突然気まぐれで「対岸に行こう」と言って、縦断するならば危険を伴います。ですから、それなりの準備が必要です。マルコの並行記事を見ますと、少なくとも舟3艘以上に分乗しているように、互いに救助しあうための体制も必要です。もちろん、そのガリラヤ湖の縦断旅行をする目的は、伝道であります。ガリラヤ湖の南東部は、イスラエル民族がおらず、ユダヤ教以外の宗教をもった民族の土地です。ですから、かつてはユダヤ教の国であったサマリヤよりもユダヤの神様への信仰が無い場所です。そういった意味で、大変伝道するには良い場所に見えますが、神様を信じる者のいない土地では、イエス様の起こす奇跡を見ても、怖れるばかりで受け入れられなかったのです。


『8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。』

 ガリラヤ湖は、海と同じくらい荒れるようです。イエス様が乗っていた舟は、ゼベダイの子ヤコブとヨセフが刺し網に使っていたような舟ですから、長さも8mぐらいしかありませんし、幅も人一人分程度です。つまり、波高30cm程度の波でも、横から来たら水をかぶってしまいます。波は風によって起こされますが、一度波が立つとなかなか消えません。そして、断続的な突風で、波が高くなっていきます。舟は木造ですから、水びたしになっても沈むことはありませんが、舟につかまっていないと流されてしまうので危険です。


『8:24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。』


「先生、先生、おぼれそうです」とありますが、直訳すると、「隊長、隊長、いかれてしまいそうです」と叫んだわけです。そして、風と荒波をイエス様は叱りました。自然現象の風や荒波をイエス様は叱ったということは、風にも荒波にも人格があるのでしょうか?風と荒波は、この叱りを受けて静まりました。こうして凪になったので、みな助かったのです。この物語が、あまりにも荒唐無稽だとお考えであれば、この一行の旅を襲うような争いがあったのだと考えてください。例えば「風」や「荒波」というあだ名を持った弟子の二人が、イエス様が寝ている間に諍いを起こしていたならば、この記事が荒唐無稽だとは言えません。少なくとも、この記事を書く上で、何らかのことは起きているはずですから、いわゆる「神話」として切り捨てるのではなく、福音の一部として受け止めていきたいものです。


『8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。』


 使われているギリシャ語は、どちらかと言えば「怖れ」の方です。この怖れは、失うことを恐れていると言うようなニュアンスですから、避けたい、逃げたいと言った後ろ向きな感情です。ですから、この怖れには「畏れ」と言った畏敬の念もなければ、「恐れ」といった冷静なリスク判断でもありません。弟子たちは、このイエス様の業を見ても、イエス様の中に神様の力があることを受け入れていなかったのです。