2021年 1月 24日 主日礼拝
『イエス様に従う』
聖書 ヨハネによる福音書1:35-42
今日は、イエス様に最初の弟子たちが従った物語をヨハネによる福音書から、み言葉を取り次ぎます。
この物語は、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書にもありますが、ヨハネによる福音書では、弟子になるところと、漁をするところの2場面に分けられていているなどの違いがあります。ヨハネによる福音書の記事を補足するために、マタイとマルコを読むと、シモンとその兄弟アンデレは、網を投げています。投網ですね。当時のガリラヤ湖での漁は、投網と地引網、そして刺し網を使っていました。そして、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、船の中で網を手入れしていますから、刺し網だということがわかります。どちらも、漁をしているところにイエス様があらわれるのです。
ヨハネによる福音書で最初の弟子が従う場面では、弟子たちは漁をしていません。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けているところに、イエス様が現れる場面から始まります。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるわけですが、そこに聖霊が働きました。それを目撃したバプテスマのヨハネは、翌日、歩いておられるイエス様を見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言ったのです。そして、そこにいたのはバプテスマのヨハネの弟子二人でした。
二人は、そのままイエス様に従って行きます。どうして、こんなに簡単にイエス様についていくのか驚かされますが、そこには、神様のご計画があると思われます。従って行ったバプテスマのヨハネの二人の弟子たち。その一人がアンデレだったわけですし、またそのアンデレは兄弟シモンを誘うことになります。
一方で、ヤコブとその兄弟ヨハネのことは、この場面では何も書かれていません。・・・たぶん、ヨハネによる福音書なのだから、と思われます。ヨハネが自ら書いたとされるヨハネによる福音書には「愛する弟子」や「ゼベタイの子たち」として出て来るだけで、ヨハネの名前は出てこないのです。ですから、バプテスマのヨハネの二人の弟子たち。そのもう一人は、福音書を書いたヨハネ自身であった可能性が高く、ヨハネはイエス様に従ったあと、兄弟ヤコブを連れてきたという事だと思われます。
さて、この物語を読んでみると、アンデレの行動に興味を覚えます。アンデレは、イエス様の弟子たちの中で、いつも4番目ぐらいに出てきます。具体的にアンデレ個人の行動が書かれた福音書の記事は、このイエス様に弟子として従った記事と、5000人への給食の場面しかありません。しかし、この給食の場面から、アンデレの性格と気遣いが読み取れると思います。こんな記事です。
ヨハネ『6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」』
成人男子だけで5000人いるところに、「パン五つと魚二匹」とても足りるわけがないのに、少年が「役に立ててほしい」と持ってきます。弟子たちのなかで、アンデレだけがその申し入れを受け止めました。そして、イエス様の前にその少年を連れて行ったことをきっかけとして、5000人の給食が実現したのです。この記事を読むとアンデレは、優しい人、そして人思いの人なのかなと思われます。そういう、人の気持ちを大切にするアンデレは、今日の聖書の箇所でも、大事な役割をはたしています。
一つ目は、バプテスマのヨハネの「見よ、神の小羊だ」との言葉を聞いて、イエス様に従って行ったこと。そして二つ目は、兄弟シモンに最初に会って、イエス様のところに連れてきたことです。
アンデレのはたした役割は、結果として伝道そのものでした。そして、イエス様、バプテスマのヨハネそして、兄弟シモンを大切に思うアンデレのことですから、すべての人が納得できることを選んだはずです。そして、そういうアンデレの言葉ならば、皆聞き入れてくれたのだと思います。アンデレは、どの聖書の場面でも脇役のようではありますが、大切な役割をもって、この主役たちを支えていたのです。
アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でした。それが、イエス様の弟子になろうとするわけです。だから、アンデレはバプテスマのヨハネへの信頼を通して、イエス様を見ていたのだと思います。その中心にはイエス様を「神の子」と信じるバプテスマのヨハネの信仰がありました。アンデレは、バプテスマのヨハネの信仰とバプテスマのヨハネへの信頼を通して、イエス様に従う決心をしたのです。イエス様もバプテスマのヨハネもこのことを受け入れてくれたので、すぐに従えたのだと思います。
それでも、アンデレには気がかりなことが一つありました。兄弟シモンのことです。どうしても、兄弟を置いて出発してしまうことができなかったのでしょう。アンデレは、最初に、兄弟シモンのところに行きます。そして、「私たちは、メシアに出会った」と伝え、イエス様のところに兄弟シモンを連れて行きます。
メシアとは、皆さんが良くご存じのように、「油を注がれた者」との意味です。イスラエルの王様は、神様に指名された者がなりました。預言者はその指名された者の頭に油を注いで、聖別しました。つまり、メシアとは「油を注がれた」正統な王様であり、神様が決めた王様のことです。その正統な王様が、バビロン捕囚以来いなかったのです。そういうわけで、ユダヤの人々は、「メシアはダビデの子孫から生まれ、イスラエルを回復する」という希望を持っていました。「メシアが現れるとの旧約の預言」を信じて待っていたのです。イエス様がお生まれになった時の王様 ヘロデ大王は、イドマヤというユダの南側にある国の出で、ダビデの子孫ではありません。そして、ヘロデ大王はローマに媚びるあまり、ユダの国はローマの属国になっていました。そういう意味からも、正統な王様であるメシアをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。
その様なユダヤの人々の一人として、アンデレはメシアを待ち望んでいたのです。そして、後にペトロと呼ばれる、兄弟シモンも同じ希望を持っていたのです。アンデレは真っ先に兄弟シモンのところに行って報告して、さっそくイエス様の前に連れて行きます。先生であるバプテスマのヨハネが、「メシアと信じるイエス様」。そのイエス様と出会ったアンデレは、まず真っ先にその喜びを兄弟シモンに伝えたかった。そして、イエス様に従って行きたかった。そう考えるのが自然でしょう。愛する兄弟シモンは、「メシアに出会った」というアンデレの言葉に信頼し、そしてイエス様の前に出ました。シモンは、イエス様を見る前にイエス様がメシアであることを信じたのです。アンデレの言う事を聞いただけで、何の条件を付けるわけでもなく、イエス様に従うためにイエス様の前に出たのです。イエス様は、そのシモンをも弟子とします。そればかりか、ヨハネ(ヨナ)の子シモンのことをケファ、すなわち「岩」(ペトロ)と呼ぶことにします。イエス様は、その時シモンの信仰が岩のように固いことを言い表したと言われています。そう考えると、シモンは「アンデレの話」だけを聞いて、固く信じたのだと思われます。アンデレが、たいへん人思いの人なので、アンデレのいう事は嘘偽りなく、信じて良い事なのでしょう。しかし、そうであっても、それ以外に何の情報も手掛かりもないところで、イエス様に従うことを決心する。・・・このシモンの決断は、理性のなす業ではありません。メシアを待ち望む神様への強い信仰が後の信仰の岩(ペトロ)となるシモンを動かしたのだと思います。また、そこにかかわったアンデレの存在を忘れてはなりません。アンデレのしたことは、伝道者ペトロを導いた伝道であり、同時に兄弟シモンを導いた伝道であります。神様は、私たちに伝道のために大きな仕事を与えられたり、それを助ける仕事やきっかけを作る仕事を与えたりします。そして、家族を伝道する機会もあたえて下さいます。決して、伝道者になることや、教会の牧師になる事だけが、イエス様に従う事ではありません。アンデレの様に、人思いの人を神様はより良く用いられるのです。なぜなら、そのアンデレの言葉は、だれもが聞き入れてくれるからです。そして、人は信仰を持った人との交わりを通して、その信仰に気が付き、そして目覚めるのです。このように、あらゆる人の特性は、神様にとって用いたい伝道の道具です。そして、それぞれの特性を活用するのは神様のご意志です。ですから、私たちは神様からの働きかけと感じた時、従って行けると良いですね。その機会は誰にでもありますし、牧師として献身するだけがイエス様に従う事ではありません。献身的な働きや、祈る事でも、それらはすべてイエス様に従う事なのです。そして、その時、イエス様の働きはアンデレがシモンを誘ったときにように、ある日突然やってきます。そのときに、私たちは心の準備ができていても、できていなくても、イエス様に従うことができるよう、祈っていきたいです。神様の導きなので、私たちは、安心してその時を待つのが良いと思います。
2021年、今年はコロナの影響も続く中、キリスト教全体としても教会の活動が変化していくと思われます。良くも悪くも、キリスト教会の伝道スタイルと言うのは、人と人の交わりが中心でした。そして、キリスト教は「食卓の宗教」と言われるくらい、共に食事をとり交わりを持つことを大事に守ってきました。これからも変わりはないと思いますが、人との対面接触の機会を減らさなければならない今この時に対しては、厳しいものがあります。当面、教会での交わりを制限することは、やむを得ないです。一方で、多くの情報や娯楽がある現代においては、人々の目を教会に集めることも難しくなってきています。ですから、聖書の教えや、伝道について、周辺の人たちに向けて発信し続けますが、今以上に、届きやすいメッセージを発信していく必要があります。
少なくとも、今、キリスト教会にとっても、他の宗教にとっても、大変な時であることは間違いありません。私たちは、そういう意味で一人一人の信仰を、聖書を読むこと、礼拝に出席すること、祈ることで、守っていくことが必要です。その基本をしっかりやった上で、教会での交わり、そして伝道につなげていきたいです。教会は、イエス様を信じることを土台にして、証しと交わりをする場所です。私たちの信仰と信仰に基づいた行動が、人々に届くのです。イエス様は私たちを伝道の業に用いられるのです。今日のみ言葉のアンデレがそうだったように、イエス様は私たちをも突然 お用いになります。私たちは、社会と教会の接点になるわけですから、イエス様は私たちを通して、私たちの周囲の人々に働きかけられるのです。イエス様が伝道しますから、私たちは何時でも喜んで用いられるように、信仰を守りながら祈ってまいりましょう。それが、「イエス様に従う」事です。イエス様の平安が何時もありますように、お祈りしましょう。