2025年 2月 2日 主日礼拝
『周りを神の家に』
聖書 ヨハネによる福音書2:13-25
今日の聖書箇所は一般的に「宮清め」と言われる場面です。このヨハネの書いた記事は、マタイ、マルコ、ルカの書いた宮清めより、一年前の出来事だと思われます。
過ぎ越しの祭りのとき、ユダヤの人々はエルサレムに巡礼にやってきます。そのため、エルサレムの町は、普段の何倍もの人でにぎわいます。そして、巡礼者は、神殿で神殿税と生贄をささげます。その税金と生贄のために、神殿で商売をしている商人がいました。神殿には、ローマの皇帝が刻んであるお金を献げるわけにいかないので、シェケル(ペルシャの通貨)というお金に両替しなければなりません。また、遠くからエルサレムまで献げ物の動物を引いてくるのも大変ですから、神殿の中で買うことになります。そして、この手の商売は、儲けが大きく設定されがちですが、両替でも1/3ほどが利益だったようです。(詳しくは、2023.10.22のマタイ22:15-22からの宣教を参照ください)、犠牲の動物も同じような利益を産んだのでしょう。ユダヤ人男性は、年に1回、1/2シェケルを神殿税として納めなければなりません。それは、2ドラクメ(ギリシャの通貨)であり、2デナリ(デナリウス:ローマの通貨)であります。1デナリを8000円としたら、16,000円だと言うことです。
エルサレムに来た巡礼者は、エルサレムの神殿で、献げ物としてお金と動物を買いました。このこと自身は、やむを得ないのです。普段使っているお金は、律法で禁止されている像が刻まれているので、献げることができません。また、献げ物の動物は律法で傷のないものと定められていました。つまり、神殿での商売も、律法に基づいていたのです。
しかし、イエス様はその様子を見て、ひどく怒りました。柔和なはずのイエス様がです。
『2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」』
イエス様は、なんと縄で鞭を作って振り回したのです。そして、動物たちを追い出し、両替商のお金もまき散らしました。ただでさえ、大勢の巡礼者と、犠牲にする多くの牛、羊、山羊、鳩でごった返しています。そこに、この騒ぎで生贄の動物が暴れだしたので、大変混乱したことでしょう。また、両替に並ぶ人々の前に、お金がまき散らされたのです。この騒ぎは、やがて収まるとしても、商人たちは、かなりの損失を出してしいます。イエス様もただでは済まないでしょう。
イエス様がこれほどまでに怒った原因は、第一に暴利をむさぼっている商人にあります。手間賃として、利益を乗せるのは商売として正当なことではあります。ですから、神殿の中での正直な商売であったならイエス様は、こんなことはしなかったでしょう。しかし彼ら商人は、神殿で商売をする権利を、祭司たちから買い取っていたのです。その独占的な立場を利用して暴利をむさぼっている。そういったことに、イエス様は怒ったのだと思います。
イエス様は言いました。
『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』イエス様の大立ち回りは、悪徳商人や私腹を肥やす祭司たちを裁くものだと言えます。だからと言って、この世の悪徳商人を懲らしめるイエス様の姿に、喜んでいる場合ではありません。お金で買収されている祭司たちや、神殿でぼろ儲けをしている悪徳商人たちは、だまっているわけがないからです。それに、その悪徳な商売は、無くなりはせずに将来も続くだろうからです。
そもそも神殿、そしてイエス様が「わたしの父の家」と言った「神の家」とは、どう言う所なのでしょうか? そこは、神様と人間が出会う場所です。と言っても、父なる神様は本来、人間が作った場所に住む方ではありません。また、この地上の、特定の場所で、神様が人間と出会ってくださる確約はないのです。しかし、神様を求める人々は神殿を建てました。また、神様もその人の作った神殿で、「神様を礼拝し、神様と出会いたい」人々には出会ってくださるのです。ですから神殿は、人間と出会ってくださる神様と交わりを持ち、神様に、心を向ける場所なのです。
ところが、商売のためだけで、神様を求めないならば、神殿は「神の家」とは言えません。当時、ヘロデが改築した第二神殿はすばらしく壮麗な建築物だったようです。でも、どんなに壮麗な神殿であっても、神様を求めていなければ「神の家」とはなりえないのです。もちろん、神殿で商売をする商人も正当な利益をもって、自分の家族の生活を支えなければなりません。しかし、利益をむさぼるだけが目的だとしたら、その人は、神殿を「神の家」ではなく「商売の家」にしているのです。イエス様が求めているのは、心から神様を求めなさい と言うことであります。
その批判は、年に一度の巡礼で神殿を訪れている人々にもあてはまります。彼らは、毎年気持ちを新たにして、神殿のあるエルサレムに上ってきていました。しかし、考えてみると、心を向けているのは、自分の願いを聞いてくれる神様、自分に都合の良い神様なのです。すこし、言い方が悪いのかもしれません。ただ、どんなに信仰熱心に見えても、イエス様から問われているのです。「本当に神様を求めているのですか?」と。
商人と祭司は、神殿を「商売の家」にしていました。同じように、巡礼者も神殿を「自分の望みをかなえる場所」にしているのでしょう。なぜならば、巡礼に出かけるほどの敬虔さ、そして生贄の動物、そしてお金で「自分の望みを買っている」からです。労力と生贄とお金で、神様に「願い事」をする。これは、ある意味、取引です。それは、神殿を「商売の家」にしていることを示します。イエス様はそのような人々の心を見て、神殿が「商売の家」になっていると言いました。・・・ここで弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』との詩編を思い出しました。これから降り注ぐだろう、悪徳商人たちの復讐を恐れたのです。
詩編『69:10 あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。』
商売を妨害された商人たちは怒って言います。
『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』
弟子たちが恐れたように、商人はイエス様にこんなことを言いまあす。
「あなたは、神様の権威を使ってこんなひどいことをしたからには、その神様の権威をもってどんな奇跡を起こして見せるつもりなのか?」
彼らも、生きていくためには、利益が必要です。それは承知の上で、イエス様はあえて神殿で大立ち回りをしました。そこには、神殿を「神の家」としなさいと教える強い姿勢が見えます。
イエス様は、言います。
『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』
この言葉に対して商人はこの神殿は建てるのに46年かかったと答えています。それを三日で建て直してみせるという言葉には、驚かされます。しかし、イエス様の復活の後。弟子たちは気が付きます。イエス様の言った神殿は、「イエス様の体のことだった」と。・・・イエス様は三日で神殿を建て直しました。十字架にかかって死に、三日目に復活をした。それはまさに三日で神殿を建て直すことでした。そしてそれは、イエス様の父の家、「神の家」を、私たちのために建てることでもありました。イエス様は、私たちが神様と出会うことのできる、神殿を建ててくださったのです。御自身の命を犠牲にすることによって、「神の家」を私たちにもたらしたのです。
『2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。』
人々はイエス様が起こす奇跡を見て、イエス様を信じました。しかし、イエス様は、「彼らを信用しなかった」と書かれています。実は23節にある信じると、この24節の「信用する」は、元のギリシャ語では同じです(ピステウオー:πιστεύω)。この言葉の特性上、受け身の立場では、信じる(believe)ことを指し、能動的には、委ねる(trust)ことを指します。つまり、イエス様はこの時イエス様を信じた人々に、御自身を委ねませんでした。まだ、その時ではないからです。そして、イエス様は、人間の限界を良くご存知だからです。
たとえば、イエス様は、ペトロを弟子にするとき、肝心な時に、逃げ出すことを知っていました。また、ユダにいたっては、直接的に裏切ることを知っていながら、弟子にしました。弟子たちの中に、イエス様を裏切らなかった者、見捨てなかった者、十字架を理解していた者は一人もいませんでした。そして、イエス様は、人々に受け入れられず、十字架に掛けられます。 そこまでをも、イエス様は知っていました。それでもイエス様は、この世に降ってきたのです。イエス様は、この地上に来た目的を果たすために、十字架と復活の時に向けて、救いの業を完成させようとしていたのです。イエス様は、私たちの弱さも、愚かさも、罪深さも、すべてを知っています。だから、イエス様は、私たちがどんなことをやってしまっても、失望することはありません。そもそも、こんなにも私たちが弱いことを知っているからです。イエス様は、失望しないだけではなく、全ての罪を赦してくださるのです。また、罪深い私たちを知っているからこそ、イエス様は私たちを救うために十字架を負いました。この恵みに感謝いたしましょう。そして、神様と向き合って、この教会を、そして、私たちの周りを「神の家」としてまいりましょう。