2025年 8月10日 主日(平和)礼拝
「忠実で賢い管理人に」
聖書 ルカ12:35-48
今日は終戦記念日を前にして「平和礼拝」の宣教としてみ言葉を取り次ぎます。皆さんも心配しているように、ロシアのウクライナ侵攻や、イスラエルのガザ侵攻、そしてイスラエルとイランの武力衝突など、なかなか穏やかではないニュースが続いています。また、防衛費のGDP比を高めようなどとの報道を聞くと、暗い思いがします。また今、日本が直面している軍事的な恐れは北朝鮮からのミサイル発射などがあります。たまにミサイル発射の警報が出ますが、私たちは逃げることもできません。しかも、警報が出た時点で、ミサイルはすでに落ちていると思うと、何か恐ろしいですね。このような攻撃的な行動は、国と国の間だけのことだけに限りません。人と人の間でも差別や暴力が存在し、平和的な環境を壊しています。そのことも忘れないよう、日常の平和も守っていきましょう。
さて、今日の聖書は、『12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。』との命令で始まります。「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき」とは、イエス様の再臨のことを指します。その時のために「イエス様がいつ来てもよいように、準備をして待ちなさい」ということです。その時、世の終わりがやってきます。「世の終わり」とは、未だ詳しくは解き明かされていませんが、聖書の中で、何度も繰り返されています。
「世の終わりの時、つまりイエス様が再臨するときまで、信仰をもって心の準備をしていなさい」と、私たちはイエス様からの命令を受けているのです。
さて、ルカが伝えたかった趣旨を理解するために、マルコによる福音書の並行記事を見てみましょう。
マルコ『13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。~13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」』(マタイ24:42-51にもほとんど同じ記事があります。)マルコによる福音書は、最初に世に出た福音書ですから、ルカはマルコの記事を参考に、自分の視点を書き加えているとされています。今日の聖書でルカが付け加えた部分を挙げると、婚宴から帰ってくる主人を待つという場面設定、「幸いだ」という呼びかけ(37、38、43節)、ペトロの質問(41節)、神様の思いを知っていながら、み旨に従わなかった場合のこと(47-48節)の四つです。
まず婚宴について、ルカは結婚式に参列して帰ってくる主人を、終末に再び来るイエス様と重ねています。この当時の婚宴は、招かれた人がいつ帰ってくるかわからないほど、延々と続けられていました。だから、留守を守るにしても、すぐに帰ってこないと思えば、少しくらい休んでも問題がなさそうです。それなのに幸いな僕は、目を覚ましていて主人を出迎えています。
『12:37~主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。』
帰ってきた主人は、起きて待っていた僕たちに仕えました。「給仕する」と訳されているギリシャ語(ディアコネオー:διακονέω)は、仕えるとか弟子になるという意味です。文字通り主人が僕に仕えると言うことです。この場面では、婚宴でいただいた料理を、僕たちに配っている と想定しましょう。そして、この記事は主の晩餐を示している と言われています。イエス様が再び来られる時に、主の晩餐が完成するからです。天での大宴会を開いていたイエス様が、地上に降りてきて宴会を開き、ひとりひとりに仕えてパンを分ける。このように、地上でも神様の招きによって宴会が行われます。その時こそが世の終わりの時のはじまりであり、今日の聖書「主人の帰りの時」なのです。
このたとえに、ペトロが、イエス様に質問をします。この記事も、ルカ特有のものです。
『12:41 ~「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」』
一般的には、全ての人のためのたとえなのでしょう。マルコの並行記事ではこのように書かれているからです。
マルコ『13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。』(今週の聖句)
そこで、イエス様は、ペトロにたとえで答えました。
『12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。』
イエス様のこのたとえですが、その原典は、旧約聖書の「ヨセフの物語」(創世記37-50章)にあると思います。その粗筋を申し上げます。エジプトに奴隷として売り飛ばされたヘブライ人ヨセフが、外国人でありながらエジプトの総理大臣になるという物語です。ヨセフはエジプトのファラオの見た夢を解き明かし、その対策として、これから起こる飢饉に備えて穀物を蓄えておくように進言したのでした。そこでファラオは、ヨセフを総理大臣にして対策に当たらせます。その結果、ヨセフの予告通りに豊作と飢饉が起こりましたが、エジプトだけは豊作の七年間に穀物を蓄えたので、飢えることはありませんでした。そして、その蓄えた穀物で、エジプトは莫大な富を得て繁栄したのです。
現代の日本では、日本国籍を持たない人が総理大臣になることはありません。この点、現代の日本よりも古代エジプトのファラオの方が進歩的だったのでしょう。そしてその思い切った任命によって、エジプトをはじめとして、周辺諸国までもが飢饉から救われたのです。
3つ目のルカ特有の記事は、召使いたちの上に立つ管理人です。その管理人とは、エジプトの総理大臣ヨセフに重ねることができます。この記事で「時間どおりに食べ物を分配させる」と訳されている部分は、正確を期して訳すると「適切な時期に適切な量を配給する」になります。これは、まさに政治家の仕事です。国民を飢えさせないのは、上に立つものとしての義務であります。だから、例えば、最近米が高くて生活が苦しい。そもそも、米が店に出回っていない。そんな状況になってしまう前に手を打つことは、政治家つまり為政者の本来の仕事です。
だから、神様が世界中の為政者に求めていることは、世界中の人々に適切な時期に適切な量の穀物を配給する「忠実で賢い管理人」であり続けることです。そして、「主人が帰って来るとき」、すなわち世の終わりに評価されます。それは、イエス様が来て世界中の政治家つまり為政者たちを自分の前に立たせて問われることです。その時、「言われたとおりにしているのを見られる僕は幸い」(43節)なのです。
一方で、
『12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。』との言葉があります。
現実の私たちの世界では、多くの為政者たちは、イエス様がなかなか来ないことで、目を覚まして待つことをやめているのでしょうか?。だから、裁きの時に問われる自分の責任を忘れて やりたい放題しています。民を暴力的に支配し、自分のために穀物や富をかき集め、貧しい人々に再配分しようとしない「愚かな金持ち」となっているのです。主人が帰ってくる目的は食事を分かち合うだけのためではありません。この世界を、特に為政者たちを裁くためなのです。教会で行われている主の晩餐と同じように、神様の恵みを分配する。そのような為政者であるならば、イエス様はその為政者に仕えます。反対に、神様の恵みを分配しない為政者は、酷く鞭打たれるのです。
ところで、ルカによる福音書には、さらに追い打ちをかけるように47-48節が付け加えられています。その趣旨は、「主人の思いを知っていたかどうかで、罰の重さ・軽さが異なる」という事です。神様の恵みの再配分の大切さを知りながら無視する僕は、よりひどく鞭打たれるのです。このたとえ話は、世の終わりの裁きだと言えます。世の終わりに、イエス様は信者ひとりひとりを前に立たせ、忠実な僕だったかどうかを尋ねるのです(マタイ25:31-45)。最も問われるべきなのは為政者たちです。富んでおり、驕り高ぶっている為政者たちを、イエス様は厳しく尋問します。「弱者たちに再配分をしてきたのか?」「神様の意思を知りながら無視したのか?」実際に問われてからでは手遅れです。すでに裁きの時なのですから。・・だから、その時が来る前に悔い改めが必要です。
わたしたちは、目を覚ましているでしょうか?。毎週、礼拝でイエス様が供におられることを喜び、そして毎月イエス様と食卓を囲んでいます。それを感謝するとともに、目を覚ましてイエス様からの問いにも答えなければなりません。特に、目を覚ましてほしいのは為政者たちです。その為政者のためには祈りが必要です。その祈りが神様に聞かれ、世界が神様のみ旨の通りに導かれていくことを祈りましょう。平和は、そして私たちの中の平安は、「忠実で賢い管理人に」よってもたらされます。その働きには、神様の導きが必要なのです。ですから、神様のみ旨の通り為政者たちが「忠実で賢い管理人に」なっていくよう、祈ってまいりましょう。