1.民数記について
聖書を通読する機会以外に、民数記を読むことはあまりないと思われます。民数記には、イスラエルの民の部族ごとの人数であるとか、民が行なうべき祭儀のことなどが細かく語られていて、いわゆる物語ではありません。ストーリー性もなく、退屈な書物だというイメージを持った人もいることでしょう。民数記は基本的には、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出して、神様の約束の地であるカナンに向けて荒れ野を旅していった、その旅の様子を描いたものです。
2.幕屋について
イスラエルの民は「幕屋」、つまりテントに住んでいました。テントは、たたんで持ち運ぶことができますので、ひと所に定住するのではなく、荒れ野を旅していく彼らに相応しい住まいだと言えます。その幕屋は家族ごとに建てられますから、民の宿営地には多くの幕屋が建ち並ぶことになるわけですが、その中心には特別な幕屋がありました。その幕屋は、神様のご命令によって建てられたもので、神様がイスラエルの民と共に歩んで下さることのしるしとなるものでした。イスラエルの民はシナイ山で主なる神様と契約を結びました。神様が彼らの神となって下さり、彼らは神様の民とされたのです。その契約に伴って「十戒」が与えられ、さらにこの幕屋の建設が命じられたのです。民数記9章15節の冒頭に「幕屋を建てた日」とある幕屋とは、その神様の幕屋のことです。その幕屋の完成をもって出エジプト記は閉じられています。
この幕屋は、イスラエルの民が神様を礼拝するための場所です。幕屋の一番奥の「至聖所」には、十戒が刻まれている石の板を収めた「契約の箱」が置かれています。そこには年に一度、大祭司だけが入って民全体の罪の贖いの儀式を行います。幕で隔てられたその手前の部屋が聖所で、そこには香を炊く祭壇と供え物のパンをささげる机とが置かれています。祭司たちが通常そこで祭儀を行います。そして幕屋の入口の前には、犠牲の動物を焼いてささげる祭壇が設けられています。民はこの幕屋に来て、捧げものをささげ、犠牲の動物を焼いてささげて、神様を礼拝するのです。
3.幕屋を覆う雲
この幕屋が建てられた日のことです。「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた」。「臨在の幕屋」が「掟の天幕である幕屋」と呼ばれるのは、十戒を収めた箱が至聖所に安置されているからです。その幕屋が完成した日、雲がこの幕屋を覆ったのです。雲が幕屋を覆ったというのは、主の栄光がそこに満ちたことを示します。つまり、主ご自身がそこにおられるということです。
4.雲に導かれて
そしてこの雲は、幕屋が建てられたこの日からずっと、常に「臨在の幕屋」を覆ったのです。そしてその雲は夜は燃える火のように見えました。この雲は夜は燃える火のように輝いたのです。つまりイスラエルの民は昼も夜も、この雲をいつでも見ることができたのです。 そしてこの雲は、イスラエルの民の荒れ野における旅を導いたのであります。
『9:17 この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。9:18 イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。9:19 雲が長い日数、幕屋の上にとどまり続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。』
このようにイスラエルの民の荒れ野の旅は、臨在の幕屋を覆うこの雲によって導かれていたのです。神様の臨在のしるしである雲は、神様の「出発せよ」「留まれ」というご命令を表すものでもあったのです。 「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営」するイスラエルの民の旅は、信仰をもって生きる私たちの生活を象徴的に表していると言うことができます。雲は、主の命令だったのです。彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立ちました。
ここに、私たちが信仰をもって生きるための大事な教えがあると言えるでしょう。信仰をもって生きるとは、主の命令によって宿営する、つまり主が留まれとお命じになる所にしっかり留まって生きることです。 しかしまた同時に、信仰をもって生きるとは、主の命令によって旅立つことでもあります。
私たちが救いの約束を信じて生きるのは、イエス様が旅立って下さったことによってです。イエス様は神様の独り子でしたが、父なる神様のご命令に従って、父のもとから旅立ち、この地上へと降って来ました。私たち罪人の救いのために、この地上で生きて下さったのです。イエス様は私たちの罪を全て背負って、十字架の苦しみと死を味わって下さいました。この主イエスの苦しみと死とによって、神様は私たちの罪を赦して下さり、私たちをも神の子として下さったのです。神様は、復活と永遠の命という約束の地を示して下さったのです。神様を信じて、何よりもまず、神の国と神の義とを求めていく、そのように神様を信頼して生きるところに、「主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営する」という歩みが実現するのです。信仰者の歩みは、イエス様による救いの恵みに信頼して、明日のことを思い悩まず、主のみ心に委ねて、与えられた一日を喜んで生きることなのです。