2025年 10月 12日 召天者記念礼拝
『隣人を自分のように愛しなさい』
聖書 ヤコブの手紙 2:1-9
今日は、召天者記念礼拝を守っています。今年は、川名多惠子姉妹と中村支那子姉妹が天国に召されました。二人とも、イエス様にたいへん愛されていて、この教会で礼拝を捧げていました。その信仰は、私たちが引き継いでいくものです。また次の世代へと、イエス様への信仰をつなげていくのが、残された私たちの使命だと思います。この教会には多くの信仰の先輩方がいました。先ほど読み上げましたが、この方々が信仰を頂いて私たちの世代に引き継いでいきました。そういう意味で、教会は神様が作ったものであるとは言いながら、それぞれの信仰による奉仕と祈りによって、建てられ、維持されてきたと言えます。その信仰は、イエス様から頂きました。ですから、天に召された兄弟姉妹たちは、イエス様から頂いた信仰の応答として、イエス様の教会に仕えてきたのです。そのことを今日は覚えたいと思います。
さて、イエス様は第一に「神様を愛しなさい」、そして第二に「隣人を愛しなさい」と教えました。それが書かれている代表的な箇所を読んでみましょう。
マタイ『22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』
今日は、この第二の教えについて、お話いたします。
先ほど読んでいただきましたように、お話ししますのは、ヤコブの手紙からです。パウロが異邦人に伝道した使徒なのに対し、ヤコブは、エルサレムの教会で共同生活をしながらユダヤ人に向けて伝道した使徒です。二人の教えの違いについては、あとで触れることにします。
ところで、この手紙は誰が書いたのでしょうか?聖書に出てくるヤコブは、主の兄弟ヤコブ(イエス様の弟)、そして使徒の大ヤコブ(ゼベダイの子)と小ヤコブ(アルファイの子:マタイの兄弟)です。この3人はエルサレムの教会で活動しました。そのうちの大ヤコブは、早い時期に殉教していますので、この書の著者でないことは明らかです。そして、小ヤコブについては、ほとんど情報が残っていないことから、候補にはあがりません。ですから、ヤコブの手紙は主の兄弟ヤコブまたは、その名を借りた弟子が書いたと言われています。どちらにしましても、使徒パウロとは、伝道した国も民族も違いましたので、教えにも違いがありました。ですから、ヤコブの手紙は当時のエルサレム教会の教えであるとも言えそうです。そのためなのでしょう。パウロが教えた「信仰によって義とされる」などの言葉は一切出て来ません。むしろ真逆です。この箇所を見れば、それは明らかです。
ヤコブ『2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。』
このような記事に対してだと思われますが、宗教改革者マルティン・ルターは、このヤコブの手紙には批判的だったと言われています。ただ、ヤコブの言っていることは、「信仰によって義とされる」と教えたパウロを批判したものではありません。「信仰に行いが伴うことが望ましい」と言う趣旨です。この二人の教えですが、対立するのではなく、両立するのだと思います。パウロの説いた「信仰によって義とされる」と言うのは、信仰によって「救い」に与ることを教えているのであります。一方で、ヤコブが説いた「人は行いによって義とされる」のは、すでに「救い」に与っている人々に対しての教えです。イエス様を信じる者が、さらにイエス様の「福音」を聞いて、イエス様に倣おうとすることによって、祝福が増し加えられることだからです。
今日の聖書の記事は、よくあることだと思います。人を見かけで判断し、扱いを変えてしまうこの出来事が、教会の礼拝での事だったのかは、記事からは読み取れません。ただ、当時はユダヤ教のシナゴーグや個人のお宅で礼拝や交わりが行われていますから、そういう場所だったと言えます。シナゴーグであれば、そこはファリサイ派の人々が中心となる集まりです。また、有力者の家であれば、その家の主人が中心となります。また、当時のエルサレムのクリスチャンは、資金を出し合って共同生活をしていましたから、その共同生活の場所での出来事かもしれません。
あるところで集会を守っているときに、二人の新しい人がやってきました。一人は金持で、もう一人は貧乏人でした。
『2:2~金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来る』わけです。そこにいた人たちが迎えて、
『2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言う』 わけです。
たまたま、裕福な人と貧乏人がほぼいっしょに集会に入ってきたとの場面です。実際はと言うと、初期のキリスト教の群れは貧乏人の方が多かったのです。金持ちはかなり少なかったはずなので、初めての人でしかも金持ちというのは、めったには来ないはずです。だから、この極端な対応となりました。もちろん、「彼らが金持ちを招きたかった」と言った事情もあったのだろうと思われます。当時のキリスト教徒の大部分は貧しく、奴隷の身分の人々も多く、その生活は教会によって支えられていたからです。
そういう事情はありましたが、決して貧乏人を邪魔者扱いしなかったはずです。しかし一方で、裕福な人が入って来ると思わず優遇していては、差別する気がなくても、その違いは伝わってしまいます。実際、貧しい人が来れば、教会はその負担を負うことになり、裕福な人が献げ物をもって来るならば、それだけ多くの人々を養うことができるわけです。・・・
ヤコブは、このような信徒たちの分け隔てを「自分たちの中で差別をした、それは誤った考えだ」と厳しく指導します。その信徒たちの間違いを、4つ挙げてみましょう。
第一に、その人の内面ではなく、見てくれだけで判断していることです。信仰とは直接に関係がない、見てくれや持ち物で扱いを区別するのは、もはや差別なのです。第二に、イエス様が自ら示してくださった、生き方に反していることです。イエス様は教えました。
ルカ『9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』
イエス様の言う通りに、最も小さい者でも同じ信仰を持つものとして受け入れるべきでありました。第三に、豊かさを基準にした差別です。神様は、すべての人々を分け隔てることなく扱ってくださる公平な方です。神様を礼拝する場ですから、神様の公平さを示す場でなければなりません。
第四に、人を差別する態度は、神様の戒めに違反していることです。
レビ『19:18 ~自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。~』
区別には、良い意味での区別と悪い意味での差別があります。相手に敬意を表すことは良い区別と言えるでしょう。しかし、敬意を示すためであっても、ほかの人を貶める結果になるなら、それは悪い差別です。
キリスト教会の歴史では、ヤコブが指摘しているような出来事が実際に起きています。例えば、かつてヨーロッパ(フィンランド)の教会には富裕層のために用意された特別席があったそうです。そこまで極端でなくとも、どの席に座るか?だけの事でも、課題がありそうです。ある人がいつも自分の居心地のいい席を指定席の様に使う。また、その良い席は、ほかの人たちが遠慮して使いません。前方の席が居心地が良い人もいれば、最後列が居心地の良い人もいます。ただ、その居心地の良い席は、新しく来る方々を招くために空けておくか、その方々が来た時に譲る・・・。有名人とか、金持ちや見栄えの良い人を優遇するのではなく、だれにでも譲ってあげたいですね。イエス様ならそうすると思います。
続けてヤコブは、私たちに課題を突きつけます。
『2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。』
ヤコブは、「人を分け隔てするのは、罪である」と言いました。それは、どの律法への違反かと言えば、「隣人を自分のように愛しなさい」との命令に背いています。私たちには、すべての隣り人を平等に愛することができません。そして、「分け隔て」をしてしまうのです。その罪は、私たち人間の真実の姿を表しています。私たちは、この「隣人を自分のように愛しなさい」との律法に対して罪を負っているのです。
まず、分け隔てについて考えてみましょう。「分け隔てする」(プロソポレーペセオー :προσωπολημπτέω)とのギリシャ語の第一の意味は「人を尊重すること」です。ヤコブは、「人を尊重することが罪だ」と教えているわけです。なぜなら、「人を尊重する」ことは、「神様を尊重する」ことではないからです。言い変えれば、人の思いを尊重するのが罪なのです。 なぜならば、神様の思いより人の思いを優先するからです。そして逆に、神様の思いを尊重することは、人の思いを尊重する事ではありません。
ここで理解して欲しい大切なことがあります。「神様は誰に対しても 負いきれないような重荷を負わせたりしない」ということです。神様は、すべての人を「隣り人として愛しなさい」とは命令していません。出来ないからです。・・・では、私たちはいったい「誰の隣り人」となれば良いのでしょうか。その事を考えてみたいと思います。ここで、皆さんに三つの問いをします。
一つ目、「あなたに使命」を与えているのは誰であるか?
二つ目、「あなた以外の人々に使命」を与えているのは誰であるか?
三つ目、教会に使命を与えているのは誰であるか?
神様のために教会で働くことは、個人の業ではありません。また、教会では「個人個人の目標が達成できれば良いと」ということではありません。教会では、キリスト教の信徒全員による共同作業が行われているのです。そして、各人に役割があります。私の使命を手伝うために他の人々が派遣されています。また同時に、他の人々の使命を手伝うために私が派遣されているのです。それが、教会の働きです。信仰の先輩たちは、この教会での働きの中で、隣人に仕え、そして隣人に手伝ってもらって、神様からの使命を果たしてきました。隣人とは、すべての人々が隣人となり得ますが、私たちは、まずは近い人、そして教会の人です。神様の使命に関わる人。ここから始めるのです。もちろん、もっと広く多くの隣人を愛したいのですが、隣人を愛することには困難が伴います。正直に言えば、誰しも、「イエス様のように全ての隣人を愛する」ことはできないでしょう。でも、イエス様に祈るならば「隣人を愛するよう努める」ことはできますし、聖霊が導いてくださると信じています。そのことを祈りながら、信仰の先輩方は教会生活を送りました。そして、神様から与えられた使命に生きてきました。また、神様の使命を受けている人を手伝ったのです。イエス様に祈ることは、イエス様と本音のおしゃべりをすることです。イエス様に祈りを取り次いでいただくならば、それは「神様の思いを尊重した」ことです。ですから、イエス様に祈って、信仰の先輩方がしてきたように、祈りながら恵みの信仰生活へと導いていただきましょう。