マルコの福音書を読む人たちは、マタイの福音書を読む人たちとは違いました。福音書は、イエス様がキリストであること、そして古くから約束された救い王であることを、イエス様の生涯を描くことによって示している書物です。マタイは、旧約の律法と預言を引き合いに出して、そのことを示しました。なぜなら、ユダヤ人読者に向けて書いたからです。
マルコの福音書は、聖書の背景にあるユダヤ教の知識を持っていない人向けに書かれています。具体的には、ローマ人に向けて書かれたと言われています。マルコは、このようなローマ人に理解してもらえるように、難しい教えよりも、イエス様の奇跡を多く描くことによって、この方がキリストであることを示したのです。
1.神の子イエス・キリスト
『1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。』
マルコは、「イエス・キリストご自身が福音である」、と宣言して書き出しとしています。福音とは良い知らせのことです。イザヤ書40章以降には、救いに関わる人物が預言されています。その典型的な箇所がイザヤ53章です。この人物によって救いがもたらされ、その人物が良い知らせであることが旧約の預言でした。マルコは、イエス様がその良い知らせであることを記しているのです。
2.力のある方
『1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』
イエス様の前に一人の人物が現れます。その人物は、バプテスマのヨハネです。ヨハネは、救いのために、悔い改めなさいと説きました。なぜ悔い改める必要があるかと言いますと、罪が赦されるためです。悔い改めなしには、罪の赦しはありません。そこでユダヤ全国の人々が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川でバプテスマを受けました。
『1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」』
ヨハネは、自分よりも優れた方が来られると言っています。さらに彼は、「私には、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言いました。つまり、その方は、ヨハネの次元をはるかに越えています。それは、イエス様が、聖霊のバプテスマを授けるからです。イエス・キリストの福音には聖霊の力があります。私たちは、悔い改めることで、聖霊から与ることができるのです。
3.わたしの愛する子
イエス様は、水のバプフテスマを受けました。これは、悔い改めのバプテスマではなく、父とみ霊による任命式でした。父は、イエス様を「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びました。この言葉は、イザヤ『42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。』から来ています。父なる神様は御子イエスをこよなく愛しています。そして、イザヤが預言した神様の僕としての使命を、御子に託したのです。
『 1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。』
イエス様は、悪の支配者サタンとの対決しました。なぜなら、イエス様のこれからは、悪魔と悪の軍勢の働きに立ち向かうことに他ならなかったのです。40日間の霊の戦いのすえ、イエスが勝利を得ました。この勝利によって、イエス様は、悪霊を追い出し、病をいやし、最後にご自分のいのちまでを捨てられました。福音の訪れは、この悪の軍勢への勝利の形で表されています。