ローマ7:1-6

 新しい生き方

2020年 8月 30日 主日礼拝

『新しい生き方』

聖書 ローマの信徒への手紙 7:1-6           

 今日は、教会の総会があります。バプテスト教会は、会衆主義教会ですから皆さんの意見を尊重しあいながら、議事を進める様努力をします。また、総会のための、最小限の規則が定められていますので、その規則に従います。しかし、実際のところ、たった2つのことを守ることだけでも、難しいところがあります。

 

 日本バプテスト連盟が発行している、「執事/役員の働き」から「教会の規則」について、3項目だけ抜粋して紹介したいと思います。

①「会衆政治による教会運営の特徴は合議制です。そして合議制の約束事と言えば多数決です」

②「多数決というルールに従うということは、自分の判断や意見を絶対的なものとするのではなく、多くの判断や意見の中の一つであるという相対化をすることです。」

③「決議の執行に当たっては、少数の意見、小さな声を十分くみ上げるよう配慮します。」

これらを読んで見ると、バプテスト教会のような会衆主義教会では、皆さんがそれぞれの意見に耳を傾けることが大事であると言うことになります。ですから規則通りに多数決する前に、教会員一人一人が、「教会の交わりを守り、活動を豊かにする」ために配慮が要ります。悪い例を挙げるとわかり易いでしょう。意見が大きく分かれているのに、決議を強行するのは配慮が足りません。実際に起こる典型的な事例は、会堂を新築する等の重要議案です。推進派と慎重派に意見が割れるのはしかたがないことですが、決議を急いだ結果、1票差となった例もあります。この場合、反対した人も相当額の献金を約束したことになってしまいますので、教会に深刻なわだかまりを残します。反対する人にも「決定」が有効であるのは、多数決の約束事ではありますが、飽くまでも「受け入れられる範囲」でのことです。提案の良いところや、悪い所を説明しあい、お互いに「受け入れられる」まで、歩み寄ることが必要です。そういう意味で、あえて決議しないことが、望ましい時もあります。

加えて申し上げますと、現代は、多様性の時代です。色々な考えを持っている人が教会に集まっていることが、前提になっています。決して自分だけが正しいと思い込まないで、自分の意見もたくさんある意見の一つと受け止めましょう。そうすることによって教会生活に大きな恵み「多様性」がもたらされます。

また、もう一つ深刻な意見の違いを生む原因があります。召命感、つまり「神様は自分に何を命令しているのか?」が、人によって違うということです。

例えば、百匹の羊を飼っている人が、一匹の迷える羊を探すことに懸命になることが挙げられます。教会では、一人一人を大事にするために、よくおこる意見です。「今。万難を排してこの迷える羊の世話をしたい」これは、牧師が言い出すことが多いでしょう。そして、「残りの九十九匹の羊を放っておかれても困る」これは、例えば執事が言うわけです。このような場合は、決定を遅らせてでも、よく話し合うことが必要と思います。どちらも「はぐれた一匹を守る」そして「教会を守る」という神様の命令に従っているのですから、どちらかが正しいというわけでは無いのです。

 

 一方で、規則のことです。教会でよくあるのが、「規則を守ることがそんなに大事か?」とのご批判があります。規則で縛らないで自由にやらせてほしいという考えを持っている方が言われます。規則よりも今そこにいる「人」の方が大事と言う価値観は、当然あるでしょう。しかし、「教会が内外に約束している、最小限の規則」なのに、守らなくてよいという判断はありません。つまり、困ったことにどちらも正しいのです。しかも、お互いに言いっぱなしのままでは何も良くならないので、規則は曲げずに運用を考えた方が良いです。なぜなら、規則は、「教会の交わりを守り、活動を豊かにする」ために、民主的運営を要求しているものです。ですから、規則に書いてある民主的な運営の手間を惜しむという答えはないからです。逆に、規則に書いていないことは、目的に反しない範囲で、運用を変えられます。また、規則が現実と合わなくなった時は、規則を変えることもできます。しかし、律法主義者のように「今まで通りの規則と運用」にこだわりすぎるならば、教会は変わらないばかりか、「教会の交わりを守り、活動を豊かにする」ことも危うくなるかもしれません。

 

 今日は、律法と律法主義のお話をします。律法(νόμος)と律法主義は、語源は一つですから、同じ言葉を使いながら文脈によって意味が違ってきます。聖書には律法主義と言う言葉は出てきませんが、注解書には律法主義と言う言葉がたくさん出てきます。そもそも、聖書が書かれた時代には律法主義に相当する言葉がなかったようです。例えば、ガラテヤの信徒への手紙には、律法主義を示す律法と本来の律法の区別が表現されていません。

ガラテヤ『2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。』

それにしても、「律法に対しては律法に死んだ」という言い回しは、このままでは理解が困難です。ここでは、「ファリサイ派の人達が作った口伝の律法」と、モーセ五書の律法を区別しなければなりません。ファリサイ派の人たちは、彼ら自身が作ってきた律法を守ることにこだわりました。何しろ口伝(口伝え)の律法です。文書として書き記されていなくて、一部の人々しか教育を受けていない律法ですから、ファリサイ派の人々自身の「権威を表すもの」になってしまっていたわけです。律法主義とは、そのファリサイ派の人たちが作ってきたものを絶対化し、それに従わせようとの考え方ということになってしまったのです。そして、後の方の律法は、神様がモーセや預言者を通して与えてくれた律法です。ですから、『律法に対しては律法に死んだ』は、「(ファリサイ派の作った)律法は、(神様から頂いた)律法によって死んだ」と読み替えるとわかりやすいです。また、神様から頂いた律法は、イエス様も大事にしていました。その証拠が、マタイによる福音書にあります。

マタイ『5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』  

 

 さて、今日の聖書箇所です。

パウロは、「結婚について、死んだ後には自由になる」ことに例えて、『律法とは、人が生きている間だけ支配するもの』と説明しています。つまり、「結婚による縛りは、生きている間だけのことのように、律法による縛りも生きている間だけ」という説明です。そして、「イエス様を信じバプテスマを受けることによって、律法が適用されない。」ことを説明しました。つまり、「一度罪によって死んで、生まれ変わったクリスチャンには、もはや律法による罪には問われることがなくなった」と言うことになります。

そこには、律法によらないイエス様のお与えになった基準『“霊”に従う新しい生き方』によって、『わたしたちが神に対して実を結ぶようになる』のです。

 パウロは、『わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。』とまで言ってまるで「律法は、罪と言う肉の思いを引き出す材料」であるかのように言います。そしてパウロが、罪の支配下にあったと言っています。パウロ自身は、ファリサイ派の人でした。先ほど、律法主義について説明しましたが、ファリサイ派の人々はより生活に密着した細かい律法を作ってきましたので、これらの自分たちが作ったものを含めて、律法と考えていました。これらの広い意味の律法は、モーセ五書や預言者の言葉と同じように、彼らにとっては神聖なのです。そして神聖だから、変えることが出来ないものとなっていました。パウロには、それが偶像礼拝と同じように見えたのだと思います。つまり、「人の作ったものを礼拝する」偶像礼拝と「ファリサイ派の人々が作った細かい律法を絶対化する」ことは、余りにも似ていると言うことでしょう。ファリサイ派の人々が作った細かい律法は、ファリサイ派の人々を象徴する「偶像」なのでしょう。ファリサイ派の作った律法が偶像ならば、そのファリサイ派の人々が造った律法が神聖であるとの主張は、ファリサイ派の人々を拝みなさいと言っているのと同じになるからです。

 

 パウロは、もともとファリサイ派だったわけですが、イエス様と出会い、イエス様を信じました。自身が経験した新しい生き方を手に入れたその前後のことを、パウロは、「肉」の生活と「霊」の生活を区別して説明します。「肉」の生活は、「律法」がただの「ファリサイ派の人々の権威を示すための道具」つまり「ただの文字」になってしまったことに原因があります。それは、「律法」自身が悪いのではなく、「律法が罪に制圧された」結果、律法は「人々を神様に向き合わせる力ではなく ただの都合の良い文字」でしかなくなったことが問題だったのです。パウロ自身も、クリスチャンを迫害していたころ、律法を絶対化するというような「肉」の思いに負けて、「罪に制圧」されていました。そんな罪の中心にいたパウロですが、イエス様に出会い、イエス・キリストの十字架による「新しい契約」を体験しました。「新しい契約によって」「霊」の生活に立ち返ったのです。

パウロは、自身の体験から、「人も律法も、罪にとらわれていた」そして、「キリストの死によって 『人も律法も罪から解放される』」と信じました。

言い換えますと、パウロは、「イエス様が生きる目標となった今は、人も律法も罪から解放された」と信じたのです。罪にとらわれていたのは、「人の作った ただの文字を生きる目標とした」からです。「ファリサイ派の人々が作った律法を目標とした」ことが、人と律法が罪にとらわれた原因と言えます。パウロはこのように、決して律法が悪いとか、罪であるとかは言っていないのです。

律法は、手段ですから目標・目的によってその使われ方が変わってしまいます。律法は、そもそも悪ではないわけです。そして律法を運用するのは人です。その運用している人が目指すものを「肉」の思いから「霊」に入れ代えることよって、ファリサイ派の人々が作った律法から解放されます。それは、イエス様の新しい契約による生き方に仕えることを指します。

 

 今日は、総会にあわせて、律法、総会で言うと規則のお話をしました。規則は守るべきものです。事実、パウロは律法を否定していませんし、イエス様も「律法を成就させに来た」と言っています。ですから、律法や規則は、軽く見てはいけませんし、規則を盾に意見を通すこともいけません。

当然のことですが、人が作った律法や規則は、神様が下さった律法とは違い完璧なものだとは言えませんから、規則を「教会の交わりを守り、活動を豊かにする」目的にあわせ見直すのも必要です。また、私たちはバプテスト教会と言う「会衆教会」の一つとして、民主的運営をする責任があります。また、社会に対して規則を守る責任があります。そして、当然のことですが、規則は活動のためにあります。よりよく「教会の活動を進めていく」という視点で、総会を機に話し合いができればと考えています。教会についてたくさんの意見があると思いますが、思うところを発言いただきたいと思います。そして、方向性だけはまとめたいですね。そうして教会がまとまるためには、話し合う時間と祈りが必要になります。

 

 私たちは、イエス様の十字架によって、「新しい契約」に生きているわけですから、「霊」によって、解放されていなければなりません。全ての教会の課題は、「イエス様を目標」に「イエス様のご計画を目標に」据えて、皆が意見を出し合って理解しあい、違う意見を認め合うことが必要です。

「イエス様を目標」にして、「新しい生き方」を一緒に考え、祈ってまいりましょう。