ヨハネ1:29-34

神の小羊

 この聖書の箇所に入る前に、バプテスマのヨハネに「あなたは、どなたですか」と祭司やレビ人たちが聞きました。メシアなのかエリアなのか、それとも預言者なのかを聞いたわけです。ヨルダン川でヨハネはバプテスマを授けていましたが、その対岸のベタニヤ村での事です。ヨハネは、自分はメシアではないと説明をして、自分の後から来られる方がいることを預言します。聖書には、あまり詳しくはないですが、バプテスマのヨハネの活動は、活発で目立ったのだと思われます。わざわざ神殿のあるエルサレムではなく、ヨルダン川までバプテスマを受けに来るわけですから、エルサレムの祭司たちやファリサイ派の人たちも、無視し得なかったものと思われます。


1.神の小羊

 その翌日、イエス様がバプテスマのヨハネのところに来られました。「神の小羊」とは、イエス様を指す言葉で、罪を償うために生贄を捧げる習慣があるイスラエルにあって、小羊はこうした生贄に供されるものの一つです。イエス様は、私たちの罪を贖うために生贄となったことから、ヨハネによる福音書などで、この呼び方が使われています。バプテスマのヨハネは、イエス様を見るとこう言います。

『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」』

 メシアではないかと思われていた、バプテスマのヨハネです。この言葉の通り読むと、イエス様がメシアであると証をしたといえます。私たちの罪を取り除くためにささげられた「神の小羊」であり、そして天地創造の時からおられた、ヨハネより後に生まれたイエス様です。ヨハネは、イエス様の事知らなかったようですが、すぐに分かったようです。そして、イエス様の前に悔い改めのバプテスマを授けていたのは、イエス様の現れた時のための準備だったと言います。道をまっすぐに、イエス様の通るときにあわせて、信仰の土台の部分をまっすぐにしていたのです。

2.聖霊が降る

 バプテスマのヨハネは、イエス様のことを知りませんでしたが、バプテスマのヨハネを遣わしたお方から『霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と告げられていました。そして、イエス様にバプテスマを授けると、

『“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。』ということです。

他の三福音書には、その様子が書かれています。

マルコ『1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』

 バプテスマのヨハネは、このイエスさまこそ聖霊でバプテスマを授ける方であると証をしたのです。

3.神の子であるイエス様

 バプテスマのヨハネは、自らを遣わした方から聖霊によってバプテスマを授ける人が来ることを聞いていました。しかし、ここでヨハネは、何の説明もなしに「神の子」であると証したのです。もちろん、霊が降るところを見ているのですが、それだけでなぜイエス様が「神の子」だと言えるのでしょうか?


(注)神の子は、言(ロゴス)や三位一体の「子なる神」をさします。まだ、三位一体説はこの世に出ていない頃のことですから、ヨハネ自身はイエス様を神ご自身と理解されていたと思われます。


 霊は鳩として天から降りてきて、イエスに光を当て、ヨハネの記憶に残る時を与えました。この光景をヨハネ自身が自分の目で見ました。そのイエス様にバプテスマを施したときの記憶は、ヨハネと一緒にいたすべての人々の前に、「イエス様が神の子」であることを証しさせたのです。ヨハネは、「自分より前にいた方が、自分のあとに来る」と理解していました。つまり、創造の神ご自身です。創造の神ご自身が、ただ一人の子である神の子イエス様をお降しになったのです。そして、イエス様は言(ロゴス)です。天地創造のときから、神様と一緒にいました。神様の造られた世界に時が満ちて送られたイエス様は、神の子でありながら人間としてこの世に降り、バプテスマを受けたときに、聖霊を授けられました。それはイエス様が誰であるか、そしてイエス様が何を起こすのかの証しでした。