Ⅰヨハネ1:1-10

光の中を歩む 

 

1.ヨハネ

ヨハネの手紙一、二、三、およびヨハネの黙示録もあわせ、福音記者ヨハネ(=使徒ヨハネ)が書いたとされます。ヨハネは、ヨハネは初代教会においてペトロとともに指導的立場にあって、使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされます。古い伝承によりますと、ヨハネはイエスの母マリアを連れエフェソに移り住んで、のちパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を書きました。

2.命の言(ことば)

 ヨハネ『1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』

このように、ヨハネによる福音書には、「天地創造の時、最初からあった言葉が、イエス・キリストと言う肉体をもった姿でこの世に降られ、神の子としての栄光を現した」ことをきわめて短く書かれています。ヨハネの手紙一では、そのことを補完して説明しているものです。手紙として、あいさつ文もなく唐突な始まり方ですが、この手紙の宛先の人々の問いに直接的に答えているのだと思われます。

「始めからあったもの」とは、言です。そして、言は神様です。

(ヨハネ『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』)

そして、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とは、イエス様の教えです。「命」とはイエス様のことです。そうすると、以下のように読み取れます。

初めからおられた神様である、イエス様の教え、すなわち「命の言葉」について。

イエス様は、父なる神様と共におられましたが、この世に降られました。わたしたちの前に現れたイエス様を私たちは見て、あなたがたに証しして、伝えるのです。

わたしたちがイエス様を通して見て、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたとの交わりのためです。わたしたちの交わりは、神様と御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書くのは、わたしたちの喜びです。


3.神は光 

ヨハネによる福音書には、光についてこのように書かれています。

ヨハネ『1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』

先ほどと同様に、「言葉はイエス様であった。イエス様は人間を照らす光であった。」と読み取ることが出来ます。(言葉とは、神様であり、イエス様でもあります。)

「神は光であり、神には闇が全くない」とヨハネはイエス様から聞いていました。一方でヨハネは、人は闇を好むことを指摘しています。

ヨハネ『3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。』

 もし、闇が全くない神様を礼拝していると言いながら、悪を行っているならば、それは嘘をついている事になります。しかし、そのように悪を行っている私たちでも、光の中を歩むならば、『御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』

「イエス様を信じ、光の中を歩むならば救われる」と、ヨハネ自身がこのように書いています。

ヨハネ『3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。』

神様の独り子イエス様を信じる者は救われます。そこには、例外はありません。罪を犯している私たち全てが救われるのです。しかし、「自分に罪がないと」言うなら、その人は自らを欺いています。

ヨハネは、結論としてこの様に宣言するのです。

『真理はわたしたちの内にありません。1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます』。