マルコ1:1-8

福音の始め


 2022  12月 11日 主日礼拝

福音の始め

聖書 マルコによる福音書 1:1-8 

  今日はもうアドベント第三週です。アドベントキャンドルも、今日から羊飼いの蝋燭が加わりました。来週の第四週にはベツレヘムの蝋燭が加わり、4本のアドベントキャンドルが灯ります。そして、ユダヤの25日に つまり、24日の夕方にイエスキリストの蝋燭に火が灯ります。


 今年度は、福音書を使って宣教をするときに、マルコによる福音書を優先して使ってきました。アドベントの礼拝は、イエス様の誕生物語から宣教することが多いと思います。今年は主にマルコを使っている関係上、ルカやマタイのの誕生物語とは別の視点で、アドベントの宣教を準備しています。


『神の子イエスキリストの福音の始め。』とマルコによる福音書は、始まります。イエス・キリストは神の子であること。救い主であるキリストは、イエス様の事であること。これをマルコは、語っているわけです。

「イエス様の福音は、もともとこうだった。この原点に返ろう」と、そもそもの始まりを著者は言いたかったのでしょうか? 

マルコによる福音書の著者は、使徒言行録に出てくる「マルコと呼ばれるヨハネ」だとされています。これを短くしてヨハネ・マルコ等とも呼ばれているようです。マルコによる福音書の中に1か所だけマルコ自身のことが書かれてています。マルコは、イエス様が捕まった時に逃げ出した若者という説でです。

『14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。』

 これでわかるように、マルコは十字架と復活の出来事のあった(AD30年)ころから、エルサレムで福音伝道をしていたわけです。そして、AD41年ころアレキサンドリア(エジプト)にわたって、伝道を始めました。AD48年がパウロとバルナバの第一回伝道旅行ですから、バルナバはアレキサンドリアで活躍していたマルコを、この伝道旅行のために呼びよせたことになります。

使徒言行録を見ますと、もう少しくわしくマルコのことがわかります。

12使徒のエルサレムの拠点は、マルコの母マリアの家であること。バルナバのいとこであること。パウロの伝道旅行に同行していることです。そして、聖書以外に唯一マルコの存在を証明するものがあります。2世紀前半の司教が報告した、「長老ヨハネの言葉」です。そこにはマルコが「ペトロの同伴者」「ペトロの通訳」だと書かれているそうです。マルコはイエス様の傍にいた人であり、ペトロとパウロに同行していた人でありますから、福音書記者としてふさわしい経歴を持っていることは間違いありません。また、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙、ティモテへの手紙、ペトロの手紙一に 「マルコがよろしくと言っています」とか、「ルカしかいないからマルコを連れてきてください」と書かれていますので、AD62~64ごろは、ペトロやパウロと一緒だったこと、そしてルカも一緒だったことがわかります。もちろんルカとは、ルカによる福音書と使徒言行録を書いた人であります。

 そして、ペトロとパウロは、このころに殉教しています。マルコは?と言えば、アレキサンドリアに戻りました。おそらくAD60年代に福音書を書きあげていますので、ローマの獄中またはアレキサンドリアで、書いたことになります。そのマルコによる福音書の特徴は、「イエス主義」と「弟子批判」と言われています。イエス主義とは、徹底的にイエス様に従うことです。ここでの「従う」とは、服従したり崇拝することを指しているのではありません。「イエス様と同じ道を一緒に歩む」ことであります。

『8:34 ~「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』

とイエス様は言われました。マルコは、「イエス様に従うこと」を中心に福音書を書いたのです。マルコによる福音書は、福音書の中で最も古いものであります。そして、登場するイエス様の弟子たちは、マルコによって徹底的に批判されています。マルコは、ペトロの同行者で通訳でありながら、ペトロのことを特に批判しています。ペトロは、ユダヤ教の伝統を尊重していましたから、マルコの「イエス主義」とは一致しません。ペトロはイエス様の歩んだ道と同じ道を歩むことよりも、ユダヤ教の伝統を優先したからです。また一方で、ペトロの弟子マタイは、彼の福音書ではさすがにペトロへの批判を避けています。そういうこともあって、ペトロを中心としたローマのクリスチャンの群れと、マルコの指導するエジプトやコプトのクリスチャンの群れでは、イエス様の福音伝承が微妙に違ってきていたのだと思われます。そして、本当はこうだったのだと言う趣旨で、マルコは福音書を書いたと言われています。

 

『神の子イエスキリストの福音の始め。』とは、「イエス様の福音は、もともとこうだった。この原点に返ろう。」とのマルコの思いが込められています。


 さて、今日の聖書に戻ります。「イザヤの預言で始まる」とマルコは書きましたが、実際に使っているのは、マラキ書とイザヤ書を組み合わせたような言葉です。その出どころは、次の通りです。


マラキ3:1 『見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。~』

イザヤ『40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。』


 イザヤがバビロン捕囚の前の時代であり、マラキはバビロンから帰還した後の時代です。ですから、イザヤの預言を元に預言者マラキ(祭司で書記官のエズラとの説あり)が、イザヤの預言をさらに掘り下げたと思われます。マラキは、エリヤについて、このように書いています。

マラキ『3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。』

 このような預言を根拠に、1世紀のユダヤでは、「救い主の来られる前にエリヤがやってくる」との伝承がありました。


 そのこれからやってくるエリヤとは、バプテスマのヨハネのことです。イザヤとマラキによって預言された、預言者エリヤの再臨から、マルコによる福音書は始まります。そしてバプテスマのヨハネはこのように宣言します。

『1:7 ~「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」』


 神様が計画し、預言者を介して伝えられていたバプテスマのヨハネの登場です。ヨハネは、キリストに先駆けてヨルダン川周辺で伝道をしました。

それは、『1:4罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。』というものです。人々は、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを授かりました。ヨハネは当時、たいへん評判が高かったようです。この後、イエス様が伝道を始めるて人々の評判を得ましたが、ヨハネへの人気も根強かったのです。その理由の一つに、ヨハネの姿と生活がありました。


「らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め」――――これは列王紀(下1:8)にある預言者エリヤと同じ服装です。このように最も偉大な預言者とそっくりの姿で「いなごと野蜜を食べる」だけの生活をしているヨハネの姿は、人々の注目の的となりました。そして―――「このヨハネは、待ち望まれていた救い主ではないか……?」 人々の中にはそう思う人も少なくなかったのです。

 このように人々から注目を受けていたヨハネが人々に宣べ伝えていた教えは、実に厳しいものでありました。マタイやルカの福音書によると、バプテスマを受けに来たファリサイ派の人々に向かって、ヨハネは叱りつけるようにして「まむしの子らよ」と呼びかけたくらいです。しかし、マルコの福音書にはそのようことは何も書かれていません。その理由は明確です。マルコが書いた福音書は、イエス様の伝記や、周辺で起こった出来事の取材記事ではないからです。マルコはシンプルに、自身の信仰に基づいて福音を書いているのです。ここで、マルコが中心としたかったのは、バプテスマのヨハネをこの世に送った神様のご計画であります。すなわちこうです。


『神の子イエス・キリストの福音』は、神様が計画し、預言者が預言したように、救い主イエス様によって始まります。その先駆けとしてバプテスマのヨハネがやってきました。そして、福音はヨハネよりはるかに力がある神の子イエス・キリストによってもたらされるのです。ですから、イエス様がなさる聖霊によるバプテスマこそ、本物のバプテスマなのです。

 

 マルコによる福音書によれば、イエス様がこの世に現われる経緯つまり、イエス・キリストの登場の物語は、この8節だけで終わります。次の9節では、イエス様はヨハネから水のバプテスマを受けます。そして同時に聖霊もイエス様にふり注ぎました。このマルコのシンプルな記事に対して、例えばルカはイエス様の誕生に至る経緯を細かく書いています。ルカは、「1:3~順序正しく書く」ことを目標にしています。それは、順序正しく書かれた「イエス様の伝承」が存在しなかったことを示します。一方でマルコは、最初に福音書を書いたのですが、その動機には「イエス様の正しい伝承」が存在しないとの課題があったのだと思われます。つまり、美化されて実際と違った伝承が生まれつつあったということです。ですから、マルコは決して美化したり言葉を濁したりせずに、弟子たちの失敗も、そのまま手を加えずに書きました。それが真実だからです。また、イエス様の母マリアの事も「故郷で預言者はうやまわれない」(6:3)との記事と、十字架の場面しか書かれていません。その理由は、イエス・キリストが現れた経緯で重要なことは、「神様の計画により預言されそして成就したこと」だと、マルコは考えていたのでしょう。マルコが書き留めた福音書は、そういう意味でシンプルにまとめられたと考えられます。


 イエス様は、力ある言葉を持っています。そして、弱い私たちに寄り添ってくださるお方です。そのみ言葉を語るイエス様こそは、私たちの希望であります。その希望の元をたどると、その希望は神様から出たと言えます。神様は、私たちを罪から救うために、まず罪を悔い改めることを私たちに求め、バプテスマのヨハネをこの世に送りました。そして、そのあとに私たちの救いのために、イエス様をこの世にお降しになりました。神様は、その御子を十字架にかけることによって、私たちの罪を赦そうと、すべての事を計画されたのです。十字架を背負うために降されたイエス様です。アドベントの第三週を迎えました。今年も、私たちはイエス様の誕生をお祝いします。イエス様の誕生を祝うことは、「私たちも、イエス様と同じ道を一緒に歩む、つまり自分の十字架を背負って歩む」・・このことを表明することであります。イエス様に従っていこうとする決意を新たにして、イエス様にゆだねて祈る。それが私たちにとっての「神の子イエス・キリストの福音の初め」であります。