Ⅱコリント4:5-18 

 見えないもの

2022年 424日 主日礼拝

見えないもの

聖書 コリントの信徒への手紙二 5:1-18

 今日の聖書は、コリントに送ったパウロの手紙からです。パウロについては、すごく論理的で難しい話をする人のような印象がありますが、今日のパウロの言葉には、詩のような豊かさがあります。というのは、7節から11節にかけて、修辞法が使われているのです。7節が元の文ですが、その「土の器に収められた宝」について、4節の歌が加えられています。これは、へブライの歌の形式です。そして5度も繰り返し歌うその内容に、パウロの確信が感じられます。

 

 パウロの言うことには、私たちは「土の器」なのです。原語では複数となっていますので、それぞれ一人ひとりが「土の器」だと言うことです。そして、そのたくさんの器の中には一つの「宝」があるのです。ここの「宝」(セーサウロス:θησαυρός)は原語のギリシャ語を見ると単数です。その「宝」ですが、5節から6節を読んで見て、その意味を考えてみましょう。

『4:5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。』

 

「私たちの心の内に輝くキリストの光」これこそが「宝」であります。イエス様のお顔に神様の栄光を見るということですね。パウロは、「イエス様を見続けるならば、そこに神様の栄光が見える」と語っているのです。そのイエス様こそが、私たちの「宝」です。「土の器」でしかない私たちが、心の中に大切にして持っている「宝」、それがイエス様なのです。

 

 聖書の中には「器」(セキューオスσκεῦος)という言葉が何度も使われます。例えば、「選んだ器」(使徒9:15)として、パウロ個人を指して使われる場合もあれば、ユダヤ人と異邦人を「憐みの器」(ローマ9:23)として複数形で用いられることもあります。今日の聖書の箇所では、「土の器」は複数形です。「土の器」が複数であることから、教会にいる様々な人々を指しているのでしょう。「土の器」は「教会」を形成しています。その教会に集まる人々がそれぞれの「土の器」の中にキリストの福音である「宝」を保管しているということです。そして、別々の「土の器」に保管されている「宝」は、一つでしかありません。器毎に別々ですが、同じ「宝」を持っているのです。

その「宝」について、パウロはこう言います。

『4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。』

 

「土の器」とわざわざ言っているように、土を焼いた器はもろく、壊れやすいという意味をもっています。その土の器の中に「測り知れない」宝が隠されているということをパウロは強調しています。宝を守るためには、厳重で堅牢な入れ物を用意するのが普通です。しかし、私たちは、その宝のために自身の弱い精神と肉体しか用意できません。完全なるものを守る入れ物には、不完全な私たち自身だけなのです。ですから、偉大な神様の力がどうしても目立ってしまいます。というよりも、パウロは積極的にそのことを喜んでいるのです。神様の栄光を多くの人に知らしめるために、何も飾り立てることをせずに「土の器」でしかない私たちであることを認め、そして神様の栄光ばかりが目立つことを誇りにしているのです。

 

 土の器の中にある「宝」が持つ力は、神様からくる「測り知れない、並外れた、絶大な、卓越した」ものです。ですから、8節の「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」、さらに9節の「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」のです。この8節9節の表現としては、強い否定が使われています。つまりどんなことがあっても、「行き詰らない」「失望することがない」「見捨てられることがない」「滅びない」―といった神様への信頼を表しているのです。

 

 ところで、パウロは「私たちは落胆しません」(16節)と書いていますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。それはイエス様を信じる信仰にあります。パウロが語るのと同じ「信仰の霊」が私たちにも有るので、信者同士がお互いに励まし合い、慰めることができるのです。パウロはこう言います。

 

『4:13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。4:14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。4:15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。』

 

 パウロは、コリントの教会の人たちと同じ「信仰の霊」をもっていました。ですからコリントの教会を励まし、そしてコリントの教会もパウロの伝道活動への励ましを受け取ることができたのです。その同じ「信仰の霊」とは、「イエス様をよみがえらせた方 すなわち神様が、私たちをよみがえらせ、神様の御前に立たせてくださることを知っている」という信仰のことです。この信仰によってパウロは神様の前に立たされているので、私たちは「落胆しません」と宣言できるのです。

 

 「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」とパウロは言います。「外なる人」というのは私たちの目に見える肉体的なものです。目に見える外観だけではなく、いずれは衰えることも含まれます。見た目の体力的なピークは20代でしょうか?。脳や筋肉、骨、内臓はやがて機能が低下していきます。年と共に、それまでできていたことも少しずつできなくなっていきます。たとえ、衰えないように鍛えたとしても、「外なる人」は衰えるのです。一方で「内なる人」はどうでしょうか。衰え、滅びることなく、なんと「日々新たにされている」のです。この「内なる人」というのは「宝」そのものである「イエス様」への信仰のことです。パウロは「土の器」である「外なる人」は、もろくて簡単に欠けてしまうので、永遠ではないことを説明します。しかし、その中に入れている「宝」である「イエス様」への信仰によって、心の内側は滅びることなく日々新たにされるのです。

 

 また、「内なる⼈」には、私たちの心の中にあるイエス様ご自身が働きかけて下さいます。つまり、心の内に住んでいる、イエス・キリストによって、私たちの心は強められているのです。イエス様は、私たちにとって見習うべきお方です。そして、その見習うべきことは「その栄光の豊かさによって」日々新たにされているのです。そういう意味で、私たちは、イエス様によって希望を頂き続けています。ですから、落胆する間もなく、いつも新しい希望が届けられるのです。

 イエス様が送り出す聖霊によって私たちの信仰は強められますが、同時に苦難を通しても、私たちの信仰も強められます。苦難を通しても私たちに「永遠の栄光」がもたらされるのです。「苦難」と言うと、避けるべきことでありますが、苦難によって、むしろ人は成長する面もあります。例えば、苦難を避けようとしたり、苦難を乗り越えるために何かを考え、そして行動するという経験をします。その経験によって、精神的にも肉体的にも磨きをかけることになるわけですね。逆に、黙って座って見ているだけでは、決して成長はしません。考えるだけで、行動をしなければ、また、苦難から逃げ回っているだけでは、成長しないでしょう。さまざまな苦難は神様が計画します。神様のご計画において、最初から苦難も用意されているのです。苦難は神様が備えられたのであり、私たちの信仰の成長のために、大切なものなのです。

 

 私たちの「宝」であるイエス様御自身も、神様からの苦難を受けられました。イエス様は人からあざけられ、拒否され、傷付きながらも、その苦難の中で神様に従い、私たちのために永遠の救いの道を開いてくださったのです。

 

 私たちが落胆しないために、パウロはこんな事を言いました。「見えないものは、永遠に存続する」と言うことです。

 形あるもの、すなわち見えるものは、いずれその形を無くしてしまいます。植物も動物も永遠に生きることはできませんし、器などの人が作った物もいつか割れてしまいます。どんなに大きくて立派な建築物でも、いずれ、寿命を迎えるでしょう。見えるものは、いくら集めても、時間と共に無くなるものでしかないのです。また、地上でどれだけの富を集めても、天国に持っていくことはできません。すべて、見える物は、一時的にそこにあるだけなのです。もちろん、用いるために作られた物でありますから、見える物には用いる価値があります。しかし、永遠に存続するものではありません。ですから、見えるものの価値は永遠ではありません。一方で、「見えないもの」ですが、「土の器」のなかにおられる「宝」のことであります。私たちの心の中に入られているイエス様、私たちは見ることができません。そして、見ることができないので、聖霊を通して、そして人々を通してイエス様のことを知ろうとします。つまり、「見えないものに目を注いで」いるのです。見えないものを見ようとしているのは、ある意味滑稽かもしれません。やはり、見えないものは見えないからです。しかし、聖霊を通してそして人々を通して、イエス様のことを感じることはできます。そして、その見えないものは、無くなることがないのです。私たちが生きている間も、私たちが死んだ後も、見えないものは永遠に存続します。そして、見えるものは、私たちが肉体の死を迎えたときには、見えなくなってしまいます。その死によって、見えるものとの関係はなくなってしまうのです。一方で、見えないものとの関係は、肉体の死によって影響は何も受けることがありません。イエス様を信じることを告白した私たちは、肉体の死を迎えても、永遠の命をいただいているからです。イエス様への信仰によって、私たちとイエス様との関係は、永遠に存続するのです。イエス様によって、今もそして将来も永遠に導かれることを感謝しましょう。