前回の「あの男は気が変になっている」。そこからの流れです。食事をする暇さえなく、ひたすらに群衆たちの相手をしている。病気に苦しむ人々を癒やし、悪霊に支配されている人々を助け続ける。そんなイエス様を見て、「気が変になった」と、人々は言っていました。そして、その悪口を聞いてやって来たのが、イエス様の身内の人でした。「いいかげん私たちの家に帰って来なさい。・・・」と ついにイエス様を迎えにやってきたのです。
1.家族が迎えに
『3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」』
イエス様の家族がナザレからやってきました。彼らは、「あの男は気が変になった」とのうわさを聞いて、イエス様を迎えに来たのです。当時のことですから、気が変になった人を養うような国の仕組みなどありませんから、家族または親戚が引き取るのが普通だったと思われます。当然、イエス様の家族も引き取らなければならないと考えてやってきたわけです。しかし、到着してみると、イエス様はいつも群衆に囲まれていて、近づくことも声をかけることもできません。
それでも、イエス様の家族を見知っている人(たぶん弟子)がいて彼らを見つけると、イエス様にそのことを告げました。ファリサイ派の人々と論争中ですから、その議論に傾注せずに群衆を見ていた弟子がいたのであれば、それはそれで問題ですが、そのことはこの物語の中心ではありません。この3章は、イエス様の伝道の業を順序良く説明していますが、その最後に突如家族が割り込んでいることに注目ください。
病をいやし、弟子を指名し、悪霊たちを追い出し、そして、ファリサイ派の人々と論争をしている。その、お仕事中のイエス様に、この家族が訪れているのです。まったく、場にそぐわないのですが、イエス様が公的な生活に入っているその証拠とも言えます。すでに、イエス様は私人ではなく、伝道に献身をしていたことをこの物語は象徴しています。
2.家族とは
『3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」』
イエス様は、私人としての家族と言った秩序を古いものとしました。イエス様は、神様の御子として公生涯に入りました。その新しい秩序について、神の家族について語りました。
私たちは、イエス様を信じることによって、罪が赦され、そして神の国に入る約束を頂きました。そうすると、私だけではなく、多くの人々が神の国に入るわけです。神の国では、新しい家族ができます。それは神の家族です。神の国に入ることが赦されたすべての人々が、神の家族になります。
3.神の家族
教会の交わりは、イエス様と私たちとのつながりによって成り立ちます。
『神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』
この言葉には、「神の御心を行う人」と書いてありますが、ルカによる福音書では、「神の言葉を聞いて行う人たち」(8:21)と書かれています。
この場面で、イエス様のまわりには、大勢の人々が集まって熱心に御言葉を聴いたり、イエス様を批判したりしていました。イエス様の言葉を信じて聞いている人々とイエス様の間には、霊の結びつきがあるのです。教会の交わりは、神の家族としての交わりです。一人一人がイエス様と結びついているからこその交わりです。みんながイエス様を通じて、父なる神様と結びついていますから、私たちは神の子たちなわけです。それは、教会の人々が兄弟姉妹であることを指します。この関係は、人間関係ではありません。神様と私たちの関係が出来上がったことにより、必然的に出来上がってしまう関係です。つまり、私たちがイエス様を通じて神様とつながっている限り、切れない関係なのです。
ですから、だれでもイエス様の御言葉を聴き、その御心を行う人は、兄弟姉妹なのです。イエス様はこのとき、周りに座る一人ひとりを見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言いました。イエス・キリストを中心とした家族が、このときすでにそこにでき始めていたのです。そこにいたのは、イエス様を信じている者だけではありませんでした。しかし、この群れの中に確実に家族が形成していったのです。だれでも、イエス様を信じ神の家族となることによって、強い信仰と家族同士の支えと励ましが与えられます。