マルコ9:14-29

祈りによらなければ

2020年 7月 26日 主日礼拝

祈りによらなければ

聖書 マルコによる福音書 9:14-29           

 皆さんは、聖書に出てくる悪霊と病、そしてイエス様の癒しについて、どのように受け止めるでしょうか? たとえば、イエス様が生きた2000年前ならば、「病は悪霊が原因」と考えるのが普通だったかも知れません。しかし、科学の進んだこの現代社会では、「病には肉体または心に原因がある」と考えるのが一般的だと思います。ですから、私たちには「悪霊」について、あまり興味がないのだと思います。 

悪霊とは何を指しているのか? 新共同訳の巻末から紹介します。新共同訳聖書にある用語解説には、悪霊についてこう書かれています。

悪霊:精神的、肉体的な病気や障害など、人間に災いをもたらす霊。汚れた霊と同じ意味。

 

 さて、悪霊は今もいて、私たちを困らせているのでしょうか?。私は、今もいる。と考えています。なぜかと言うと、悪霊は人間の欲に作用する、誘惑だと考えているからです。人には、本来的に生命を維持するための欲求と、心を満たすための欲求があります。その欲求がその人自身で適切な範囲に抑えられないと、心身の不調に繋がることは、皆さんご存知です。食欲に任せて食べるとメタボになりますし、責任を全うしようと頑張り続けると鬱になったりします。このように、欲求を制御不能にしてしまうのは、誘惑すなわち悪霊の働きかけだとの考えはあるのだと思われます。悪霊の誘惑は、病気の原因になりますし、特に人間の行動を支配しうとます。人間は本質的に、その誘惑から完全に逃れることはできません。

 最近のニュースなどを見ると、人々の欲求を満足させるために生まれる悪い行動について、とかく話題になります。あちこちに悪霊が幅を利かせていると言えるのではないでしょうか?

 一例をあげてみると、コロナ感染があります。感染が止まらないのは、「夜の街」で濃厚接触(30分以上の会話等)が止まない事が一つの原因と言われています。感染防止の努力とは逆行していることは知りながら、「夜の街」に出る人。悪霊は巧みに人に働きかけます。また、コロナ対策がまだ不十分の時にgotoトラベルを強行したのも、特定の人の利益を優先するあまり、バランスの悪い判断だと言われています。国民の健康よりも、政治家の利益のためには何でもするのであれば、本当に悪霊が住みつい病んでいるように、私には見えるのです。

 

 今日は、マルコによる福音書のイエス様の癒しから お話したいと思います。

この物語の前のところで、イエス様は12弟子を派遣し、弟子たちはイエス様から与えられた力を使って、病人をいやしていました。

  注)マルコ6:7『十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その 際、汚れた霊に対する権能を授け、・・・』

  マルコ6:12-13『十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。』

  弟子たちは、二人づつ6組に分かれて宣教をし、時々イエス様に呼び集められては、また各地に出かけていたようです。

今日の聖書の箇所では、イエス様ペトロ、ヤコブ、ヨハネの四人が他の弟子たちの所に集まって来たときです。その弟子たちは、どうしたのでしょうか?群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしていました。「弟子が癒しの業に失敗した」ことについて、「今度は、イエス様を連れてきてくれ!」等、弟子たちは言われていたのだと思います。そこで、イエス様が来られていることに驚いた群衆は、イエス様に駆け寄って来ました。そして、ある者が「ひきつけの病を持つ息子を、弟子たちは癒すことが出来なかった」とイエス様に伝えたのです。・・・  

 その後は、議論は続いていません。急に収まってしまったところを見ると、「イエス様ならば癒せる」のかな?と期待する父親、そして群衆も成り行きを見守ろうとしたのです。

 

 弟子たちは、イエス様から病人を癒す力を頂いていました。弟子たちはあちこちで、イエス様から頂いた力を使って病人を癒してきました。ですから、彼らは「その子を癒せる」と思っていたに違いありません。しかし、今回は癒すことが出来ませんでした。たぶん、9人の弟子たち一人一人が癒しの祈りをしても、ダメだったのでしょう。また、イエス様のなされた癒しの時のやり方をいろいろまねたに違いありません。群衆は、そのたびに増え、最後は律法学者たちまでが出てきました。弟子たちには、どうして「癒す」ことが出来なくなったのか、理解できなくて焦っていたと思います。

 そこにイエス様が来て、言われるのです。9:19なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。』

イエス様は、いつも癒しをするときに、その病人と向き合い、神様に祈って癒されていました。弟子たちと父親に、「神様へ祈って委ねる信仰が足りなかった」 そのようにイエス様は言われたのです。イエス様は、神様に祈って神様の力で癒されていました。しかし、弟子たちもその子の父親も、弟子たちに癒しの力が十分にあると思っていたのでしょう。ですから、弟子たちに任せていれば、その子が癒される。ところが、そんな人任せの願いでは、十分に届かなかったのです。願うときには、「神様の力に委ねて、祈る」その信仰が必要だったのです。

 

 さて、その子をイエス様の前に連れて来ます。

『9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」』

「おできになるなら?」イエス様は、この父親の言葉に反応しました。「もし、あなたがおできになるなら」という言葉には、イエス様に委ね祈っているという信仰が感じられません。「自身の信仰がそして祈りがその子を救う」との信仰による祈りが、その父親には感じられないのです。その父親は、弟子たちに癒しを頼んだ時と同じ態度をイエス様の前で取りました。つまり、イエス様にも「あなたが出来るなら」と、子どものために祈る責任をイエス様に押し付けてしまっていたのです。

そこでイエス様は、その父親に言います。

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」』

そして同時に、イエス様は父親に対して、イエス様を信じるように促されたのです。

父親は、そのイエス様の言葉に、はっと気が付きました。

『9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」』

その子を助けたいという思いからですが、父親は混乱したままで返事をしました。

そして、イエス様は、その子を癒されます。


 ところで、イエス様は、どうしてその父親の言葉を受け入れたのでしょうか?・・・

父親の言葉は、「信じます」と言いながら「信仰のないわたし」と意味不明です。この父親には、信仰があるのでしょうか?それとも、イエス様に懇願するしかなかったのでしょうか? 

しかし、確かに言えることは、イエス様はこの父親の姿を見て、その子を癒されたということです。

この父親の叫び「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」は、源語から直訳すると、こんな感じになります。「信じます。信仰が十分でない私をお助け下さい」。

(「信じます」は、本人が主観的に事実と思っている現在形動詞、そして信仰が無いと言う全否定ではないと思われます) 

 

「信じます」というこの父親の言葉の中に、信じたいという願望がしっかりあるのだと思います。そして自分の信仰だけでは不十分だからと、イエス様に助けてくださいと 父親はイエス様に訴えたのです。イエス様は、助けてください とすがる父親の「信仰」を受け入れたのです。

イエス様は、難しいことを求められていたのではありません。イエス様はその父親の真摯な思いと祈りをさして、「信仰」と認められたのです。いま信じようと思う気持ちがあれば、そして足りない分を補うようにイエス様にお祈りすれば、イエス様は私たちを受け入れてくださるのです。こうして、イエス様の癒し、「悪霊を追い出す」物語が終わります。

 

 まだ終われないのは弟子たちです。弟子たちはよく理解が出来ていません。

『9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。』

弟子たちは、ありとあらゆる努力をして、その子を癒そうと努力しました。それでも、癒すことが出来ませんでした。イエス様の癒しと比べて、何が違うのかわからなかったのです。イエス様が、「信じる者には何でもできる」と、癒しの前に言われましたが、弟子たちは「私たちも信じているのになぁ」と思ったのでしょう。

そこで、イエス様は、「信仰」に加えて、「祈る」ことが必要なことを教えます。

 

 私たちの信仰の足りない部分は、イエス様に祈って「補っていただかなければ」なりません。私たちは、信仰が十分でないにもかかわらず、「イエス様に祈ることによって、その信仰を認められます」。そして、私たちの願うことはかなえられるでしょう。決して無条件ですべての道が開かれるという意味ではありませんが、祈ることによって、信仰が強められ、イエス様の恵みに与れるのです。

 

 現代社会にも悪霊がたくさんいるということを、最初にお話しました。これら悪霊は、「人間の本能である欲」に住み着いていますので、私たちの力だけでは追い出すことは難しいです。そして、本人が悪霊にすっかり支配された状態では、周りの人が祈らなければ、本人だけでは立ち直れないのです。執り成しの祈りがなければ、イエス様に助けを求めなければ、悪霊を追い出せないのです。

 

イエス様は、こうして悪霊に勝つ方法を備えてくださいました。イエス様に助けを求め、執り成しの祈りで、イエス様の恵みに与ってまいりましょう。