ルコ1:14-20

 漁師を弟子に 

 イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後のことです。イエス様は、40日間荒野にいて、サタンから誘惑を受けました。その後、イエス様は伝道を始めるわけです。マルコとマタイでは、すぐにガリラヤ伝道が始まって、漁師を弟子にしますが、ルカではガリラヤ伝道の中ほどにその記事があります。また、ヨハネでは、バプテスマのヨハネの弟子だったペトロとアンデレは、イエス様が「神の小羊」であることをバプテスマのヨハネから聞いて、イエス様の弟子になっています。


1.神の国は近づいた

 バプテスマのヨハネは、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスにつかまって牢屋に入れられます。領主の妻へロディアとの結婚をバプテスマのヨハネが批判していたからです。しかし、ヨハネは人気があったっため、ヘロデ・アンティパスはヨハネを殺さずにいました。そこで、イエス様がバプテスマのヨハネの準備した道を歩んでいくわけです。福音を宣べ伝えながらガリラヤ地方に行きます。

『「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。』

 バプテスマのヨハネの使命が終わり、イエス様が伝道に出たのです。まさにイエス様の時がやってきました。そして、十字架と復活の時がやがてやってくるのです。ですから、神の国が近づいたと言われたのです。バプテスマのヨハネは「悔い改めの水によるバプテスマ」を授けていましたが、イエス様は悔い改めを勧めるといういみで、バプテスマのヨハネの伝道を引き継いでいます。しかし、「バプテスマ」は聖霊によるバプテスマでした。

 

2.漁師を弟子にする

 

 シモンとアンデレは、投網の漁師でした。イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いていると、ガリラヤ湖の中に入って、網を投げているところが見えます。ガリラヤ湖は、ペーターズフィッシュやイワシが取れるところで、漁師もいました。漁で生活ができるほど魚が豊富だからです。

 『 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。』

 この記事は、あまりに唐突です。また、どうして、この言葉だけでイエス様についていくのかも理解できません。しかし、ヨハネによる福音書を見ると、シモンとアンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子としてイエス様に出会っており、またルカによる福音書を見ると似た記事の前にマルコやマタイには書かれていないイエス様の出来事が書かれています。つまり、シモンとアンデレ ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、もともとイエス様のことを知っていたと考えられます。そして、イエス様もこの四人と会話をしているものと思われます。弟子たちがイエス様のことを何だと思っていたかは、福音書の中に書かれています。

マルコ『8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。』

 メシアかエリアそして預言者という、イエス様への評価でありますが、ペトロはメシアだと言っています。ですから、すでに弟子になるまでの間に、イエス様を信じて同行したいとの意思はあったのだと思われます。そして、ペトロとアンデレは網を、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、父と使用人と船と網を打ち捨てて、イエス様に従いました。ゼベダイの船では刺し網漁をしていたのでしょう。投網よりも規模の大きい漁ができます。ゼベダイの家は、ペトロとアンデレ兄弟の家よりは少し裕福だったかもしれません。その生活のための道具と職場を捨ててイエス様に同行するわけですが、本当に全てを捨てたのかは疑問です。

マルコ『10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」』

 この記事を見ると、全てを捨ててイエス様に従ったことは事実でしょうが、イエス様によって得られる栄光のためであることがわかります。イエス様に従うことは、弟子たちの目的ではなくて、自らの栄光のための手段でありました。そう考えてみると、栄光のためには安い代価だったのかもしれません。しかし、普通に考えてみると生活の基盤を捨て、そして先生と呼ばれながらも地方をまわって教えているイエス様に従っていくということを決断することは簡単ではありません。やはり、そこにはイエス様の召しがあって、イエス様の十字架の出来事の後に、弟子たちの活躍の場を準備し、訓練されていたということだと思います。このころは欠陥だらけの弟子たちでしたが、この訓練によって強められ、イエス様の意思に従って宣教し、世界中にキリスト教を伝道したのです。