詩編23:1-6

主は羊飼い

2020年 9月 20日 主日礼拝

『主は羊飼い』

聖書 詩編 23:1-6         

 詩編23編は有名な み言葉です。表題に「ダビデの歌」とありますが、原文に書かれていません。しかし、一般的にはダビデが歌ったとされているところです。今日の聖書箇所は、口語訳聖書の聖句が大好きな方が多くて、新共同訳が出た時に話題になりました。大好きな聖句が、大きく変えられてしまったことを残念がる人もいれば、「緑の牧場教会」とか「いこいのみぎわ教会」と名乗る教会も、すこしがっかりしたということを聞いたことがあります。

1節と2節を口語訳で読んでみましょう。

『ダビデの歌

1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。』

 

 だいぶ違うと思われたでしょう。原文は、直訳するとこのようになります。

「ヤーウェは、わたしが不足しないように草を食べさせてくれる。

 ヤーウェは、わたしを牧草にのびのびと横にならせ、水飲み場に連れて行ってくれる。」

直訳することで意味は正しく直せても、詩にならないところが、詩を訳するときの難しさだと思います。新共同訳のほうは、訳としては良くなっているのですが、「詩としては、やはり口語訳の方が優れているのだなあ」と私は思います。


 もう一つ訳で気になるところがあります。新共同訳も口語訳も、1節に主語が2つあります。「主」と「わたし」ですが、原語では、ヤーウェしか主語は出てきません。「欠けて」いるも「貧しい」も、わたし(ダビデ)が判断したのではなくて、主が判断していることに注目していただきたいと思います。ダビデ自身が「満足」したかどうかを言っているのではなくて、主が、「ダビデの必要を見極めて、そして満たしてくださっている」のです。ですから、主は「必要」を決め、そして「必要を」満足させる 主なのだということです。


 神様を羊飼いと呼び、神様から管理されている人のことを羊と呼ぶのは、古代のこの地方(近東地方)では、普通のことだそうです。また、「羊飼い」といった場合に、王様のこともさしていました。王様は、鞭や杖(笏杖)を持っていたりしますが、それは羊飼いの持つ鞭と杖に倣っているのだそうです。ダビデは、父エッサイの羊を飼う羊飼いでしたが、イスラエルの王となったときには、イスラエルの民を飼う羊飼いだったわけです。そして、そのイスラエルの民の羊飼いであるダビデは、主(ヤーウェ)から見れば、主(ヤーウェ)によって飼われている一匹の羊に過ぎないのです。

この1,2節の言葉は、ダビデが主に依存していることを表し、そして、ダビデが主に信頼をしていることを示します。決して、ダビデは、自分が満足したかどうかを口にしていないのです。ダビデ自身が満足したかどうかの主観をはさまないところに、ダビデの純粋な信仰があるのだと思います。

 

 そして、イエス様もご自身のことを「羊飼い」と言います。ヨハネによる福音書10:11『 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』

またルカによる福音書15:4では 『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。』(マタイ18:12-13にも平行記事)

 

 迷い出た羊が行く先は「死の陰の谷」つまり真っ暗な谷です。「主は迷い出た羊を探し出す羊飼いのように、私を真っ暗な谷から救ってくださった」とダビデは告白します。羊飼いは鞭と杖を持って、敵の攻撃から群れを守ります。そして、もう敵から襲われることがないように、暗い夜を一緒に過ごしてくれます。それを歌ったのが、『死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける(23:4)。』になります。羊は一般的に、おとなしく従順であると言われています。一方で、臆病で、群れに自分で戻れない愚かな動物です。動物には普通、自分の巣に戻る本能がありますから、例えば空の鳥はどんなに離れた場所からでも自分の巣にもどることが出来ます。ところが、羊はその本能が弱く、群れから迷ってしまえば、帰る道がわかりません。ついには飢えてしまったり、野獣の餌食になってしまったりする恐れが高いのです。ですから羊は羊飼いがいないと、生きていけないのです。


ダビデは、自分のことを群れから離れてしまった羊に例えました。目の前が真っ暗でどうしたらよいかわからない闇の中の谷を歩んでいても、主が一緒にいてくださるから、恐いことはないと歌ったのです。

この詩は私たち人間が羊と同じように、迷いやすく、一人では生きてられない存在であることを告白しています。私たちもダビデと同じように羊飼いである主、イエス様がいないと生きていけないのです。私たちは、人生の中で真っ暗な谷を歩いているようなときがあります。人生とは多くの苦しみとともにあり、病気も死もある中で、私たちは羊飼いである主、イエス様に出会い、その導きにより、日々の糧と、命の水を賜っています。私たちが、「愚かで弱く迷いやすい」存在なのにもかかわらず、「イエス様が共にいてくださる」から、平安が与えられています。これは、たとえ苦難することがあっても、それを「恐れない」との証であります。

 この証は、「イエス様がともにいてくださるから、苦難に合わない」と言っているわけではないことに注目したいです。イエス様は、イエス様の目で見て「わたしたちに欠けることがない」ようにお世話をされています。私たちは、必要以上を求めるかもしれませんが、必要なことに欠けることがなければ、それで良いはずです。そして、「苦難」があれば、そこにイエス様が「共にいてくれる」わけです。「苦難を喜ぶ」わけではありませんが、「イエス様が共にいてくれるなら」本当に感謝なことだと思います。

 

ダビデは、常に敵を前にしていました。何度も敵に追われましたが、ここでいう敵とは、戦争をする相手ではなく、自分を苦しめる者のことです。ダビデは、「主は、私を苦しめる者とでも、私のために宴会の食卓を整えて下さると」と歌います。本来、自分を苦しめる者と一緒に宴会どころではないはずです。しかし、ダビデには「主の保護のもとにある」ことで、平安が与えられています。羊がどんな時にでも緑の牧草と、水のみ場を与えられたように、ダビデは自分を苦しめる者の前にいても、「主が、私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」とその信頼を歌います。主がダビデに油を注がせて王様にしたのですから、そして、主が平安をくださいましたし、これからも平安をくださいますから、いまも後も、主の祝福がダビデの杯いっぱいに溢れていると、ダビデはそのように信頼しているのです。

私たちには、自分らを苦しめる者とは、同席するのも嫌なものです。そして、漠然とイエス様に守られるということは、その自分らを苦しめる者を遠ざけてもらうことだと思い込んでしまいます。しかし、ダビデの歌う通り、本当に祝福されるのは、敵である自分を苦しめる者と共に生きることなのです。主は、それが必要だから、私たちにその機会を与えてくださっているのです。そして、私たちクリスチャンにとって、イエス様の祝福が充分すぎて、私たちの小さな器では受け止めきれないほどです。ですから、イエス様を知って、信じてからは、明日起こることの心配までしなくて良くなったのです。イエス様が、私たちとともに歩んでくださることを知らなければ、とてもこのような平安な毎日はなかったでしょう。イエス様は、一方的に私たちの罪をお許しになり、私たちをそのままで、何の条件もなしに受け入れてくださったのですから、感謝です。私たちは、その感謝をもって賛美を捧げ続けたいです。

 

ダビデは、この賛美で締めくくります。

(23-6)『命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。』

 

少しわかりにくいので、KJV(キング-ジェームス版聖書)を直訳してみました。

「確かに、恵みと慈しみは私の人生のすべての日に追いかけてきます。

そして、私は永遠に主の家に住みます。」

 

主の家とは、神殿のことになりますが、ダビデの時代はまだ神殿がなく、幕屋でした。もちろん寝泊まりする場所ではありませんので、「主の家に住みます」とは、「主により頼んで」という心のよりどころを示したものです。

それにしても、ダビデの主へのより頼み方というのは、「すごいなぁ」の一言です。主に共にあってくださるように祈っているというのではなくて、主の方から恵みと慈しみを携えて追っかけられている。そのようにダビデが歌っているのです。主はいつも、ダビデを追っかけて 恵みと慈しみを与えてくだってきたし、これからも主はダビデを追ってくる。だから、ダビデは自分から主のところにとどまり続けたい。ダビデは、自らの意思で主を信仰しているのではなく、もはや主に追われるまま、主に従っていこうと決意したことを歌っているのです。

現代に生きる私たちの信仰も、ダビデの歌にならったら良いと思います。

私たちが、イエス様を選んだのではなく、イエス様がこの世のすべての人を招いているのです。私たちは、イエス様によって追われ続け、そして恵みと慈しみを頂いてきました。これからも変わりなく、イエス様はわたしたちを追ってきます。どこまでも追ってくださる、イエス様に感謝するとともに、そのイエス様の恵みと慈しみの中で暮らしたいと、ダビデの様に歌いながら、イエス様に従ってまいりましょう。私たちは、イエス様がいなければ何もできない、羊に過ぎないのですから。