2024年 8月 18日 主日礼拝
『神様を畏れる』
聖書 ヨブ記 28:1-28
今日は、ヨブ記からみ言葉を取り次ぎます。ユダヤ教の伝承ではヨブ記を執筆したのはモーセであったとされていますが、実際の作者は不詳です。紀元前5世紀から3世紀などと、わりと新しい時代にできたともいわれています。まず、ヨブ記には何が書かれているのか、簡単におさらいしたいと思います。
ヨブは、七人の息子と三人の娘、そして多くの財産によって祝福されていました。ヨブが幸福であったある日、天では神様の前に「神の使いたち」が集まっていました。神様はサタンの前でヨブが正しい人だとほめます。そのためか、サタンは、ヨブの信仰心を怪しみました。ヨブの信仰は見返りを期待している。だから、財産を失えば神様に面と向かって呪うだろうと言いだしたのです。神様はヨブを信頼します。ヨブの財産を奪っても、ヨブの信仰は揺るがないことを確信して、サタンの提案を認めたのです。ただし、ヨブの命に手を出すことは許しません。そこでサタンは、ヨブの最愛の者や財産を奪いました。しかし、それでもヨブは神様に罪を犯しません。そこでサタンは、ヨブを肉体的に苦しめてみようと、神様に提案します。その結果、ヨブはひどい皮膚病に冒されてしまいます。現在では治療可能な病ですが、当時は重い皮膚病にかかるだけで、社会的に死んでしまいます。人間らしい生活は出来ません。そんな事態を知った、ヨブの三人の友人が彼を慰めるために、やって来ました。社会的に死んだヨブに会いに来る。それほど、三人の友人は、ヨブを大切にしていたのです。そして傍にいてあげたかったのです。彼らは7日7晩、ヨブとともに座っていました。しかし、ヨブの激しい苦痛を見ると話しかけることもできません。やがて友人たちは、ヨブがこんなに酷い目にあうのは、ヨブが何か悪いことをした報いではないかと、ヨブを問い詰めようとします。洗いざらい罪を認めたらどうかと勧めたわけですが、身に覚えのないヨブは反発します。
ヨブ記には、この友人たちとの会話が、延々と書かれています。友人たちの考えは、「神様は義しい方だから、善い行いに対しては祝福し、悪い行いに対しては罰を与える」という考えです。ヨブは何か悪いことをしたのだから、神様に「赦してください」と祈りなさい と勧めているわけです。もし、友人たちの勧めどとおりになれば、サタンの勝利です。ヨブは信仰深いと認められるために神様に従順であるように見せたことになってしまいます。・・・友人たちは、罪に覚えがないヨブを責め続け、そしてヨブも反論し続けます。ヨブは神様に対する潔白を主張し、なおかつ自分の正義を主張して引き下がりませんでした。友人も、ヨブの言う事を認めれば、神様は正義ではないと認めることになるため、引き下がりません。友人の考えは、「貧困や病気は、因果応報である」と言うものです。そして頑なに主張を繰り返すのでした。この頑なさは、イエス様の時代のユダヤ教指導者に似ています。彼らは、自分の求めている「救い」だけを求めました。そして頑なに、イエス様の十字架による救いの言葉に耳を貸さなかったのです。ヨブの友人たちも、同じです。神様の救いの計画を知らずに議論しているのですから。・・・そして、「善い行いをした者は報られるべきだ」との人の思いでは、何も解決しませんでした。それは神様の計画ではないからです。
この議論で疲れ果てたころ、神様は、ヨブに語り掛けます。あなたは、何を知っているのか?と 結局、ヨブは神様に人の限界を教えられます。そして、神様はヨブを今まで以上に祝福しました。今日の聖書の箇所は、3人の友人とヨブの議論であります。ヨブの反論はこの部分に要約されます。
ヨブ『27:1 ヨブは更に言葉をついで主張した。27:2 わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う。27:3 神の息吹がまだわたしの鼻にあり/わたしの息がまだ残っているかぎり27:4 この唇は決して不正を語らず/この舌は決して欺きを言わない、と。27:5 断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。27:6 わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。』
友人たちとヨブの議論の中心は、ヨブの苦難の原因についてです。「それは神から与えられた罰である」、「いや違う。罰を受けるような罪を犯していない」というものでした。そこで、ヨブは、「神様の知恵」とは何か、を語り出します。そして、その言葉を聞いた友人たちは「ヨブは義しい」と確信します。それは、「人の知恵は神様に及ばない」との ヨブの証しだったのです。
さて、今日の箇所です。ヨブは、人間の限界を明らかにしようとして、まず先に、人間の知恵のすばらしさを歌いあげます。
『28:1 銀は銀山に産し/金は金山で精錬する。28:2 鉄は砂から採り出し/銅は岩を溶かして得る。』
人間が、金属を見つけ、飾りや道具に使いだしたのは、画期的なことであります。まず、鉱石を掘り出すためには、どこにどんな石がどれだけあるのかを調べなければ、掘りようがありません。掘る道具、運ぶ道具も必要ですし、掘った後、製錬つまり、金属を取り出す作業が必要です。また、純度を上げるための精錬も行われます。この作業のために炭火で鉱石を溶かしますが、大量の木を切ってきて炭を作るだけでも、かなり大変な作業です。また、金属を整形して道具を造るのは鍛冶屋さんです。それだけ、多くの人がかかわるほどの産業に成長して、もっぱら造ったのは、不幸にして武器でした。
新しい金属や、新しい製造技術は、他国にない強力かつ大量の武器を齎します。ですから、金属の技術は国の軍事力を向上させました。その典型がヒッタイトです。紀元前1700年ごろには、メソポタミア地方の北の民族が鉄を発見した結果、ヒッタイト王国(今のトルコの東部分)を築きました。鉄を使うことによって、林業、農業の生産性も上がって、国力が大きく発展します。
『28:6 鉱石にはサファイアも混じり/金の粒も含まれている。28:7 猛禽もその道を知らず/禿鷹の目すら、それを見つけることはできない。28:8 獅子もそこを通らず/あの誇り高い獣もそこを踏んだことはない。28:9 だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし/山を基から掘り返す。』
人間はまた、猛禽や獅子でさえ 見つけることも、行くこともできない地中深くにまで掘って、そして堅い岩を砕いて、宝石を取り出します。猛禽や獅子には必要のない装飾品を作るために、人間はここまでするのです。豪華なものや美しい装飾を作る。それは、人間が生きていくために必要な物ではありません。しかし、猛禽や獅子が持ちえない人間の知恵によって、人間は、より物質的に豊かになったのです。
しかし、そのすばらしい人間の知恵でも、神様には及びようもありません。
『28:12 では、知恵はどこに見いだされるのか/分別はどこにあるのか。28:13 人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。28:14 深い淵は言う/「わたしの中にはない。」海も言う/「わたしのところにもない。」』
地中深くから金属や宝石を取り出す知恵を持つ人間でありますが、神様の知恵には及びません。人間には、ある種の知恵があります。それは、自然の営みの中で法則を見つけ、生活の向上に利用する知恵です。しかし、それは神様の知恵の一部でしかありません。また、善と悪に対する神様の摂理は、人間の手には届かない所にあるのです。完全な知識や知恵は、神様のみが用いることが出来るのです。特に言わなければならないのは、私たち自身の救いです。私たちは、自分自身で自分を救うことは出来ません。それは、神様の特別な私たちへの愛と知恵によって、計画され、そして達成されるのです。
『28:20 では、知恵はどこから来るのか/分別はどこにあるのか。28:21 すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。』
知恵は神様のものであり、人間にはその一部しか知らされていませんし、自力でたどり着くこともありません。そこにたどり着けるのは、神様だけです。
『28:23 その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。28:24 神は地の果てまで見渡し/天の下、すべてのものを見ておられる。』
ここで神と訳されている言葉は、ヘブライ語の、エロヒムです。唯一神である神様の名前ヤハウェとほぼ同じ意味を持ちます。新共同訳の旧約聖書では、だいたいエロヒムを神、ヤハウェを主と訳しています。ここで、エロヒムが言った次の言葉に注目したいです。
『28:28 そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」』
ここの「主」ですが、元の言葉はアドナイです。アドナイは、一般的に主(あるじ)、主人の事ですが、旧約聖書では、しばしばメシア(救い主)を意味します。また、聖書を読むときにヤハウェの名を口にすることを避け、アドナイと読む習慣もありました。つまり、アドナイはヤハウェであり、救い主であるイエス様なのです。その点を踏まえて直訳すると、このように読めます。
「神は言った。「見よ、救い主を畏れること、それが知恵である。そして、悪から離れることは分別である。」」
このように、人が神様の知恵を得るためには、イエス様を畏れ、イエス様の言葉に耳を傾けるしかないのです。
ヨブは、神様を畏れていました。そのことがヨブ自身の確信に満ちた主張からわかります。私たちは、どうでしょうか? いつも神様が、心の中まで見ていると思うと、畏れずにはいられません。なぜなら、私たちは悪を行うからです。しかし、イエス様は教えます。まず、神様を畏れる事です。それは、神様を怖がることではありません。神様のなさることに信頼をおくこと。それが畏れることの始まりであります。そして、神様は、全てを益としてくださいます。このことを信じてまいりましょう。