ヨハネ1:1-14

 神の独り子

2020年 12月 20日 主日礼拝

『神の独り子』

聖書 ヨハネによる福音書1:1-14 

 クリスマスおめでとうございます。

 今日はアドベント第四週です。今週は最後のアドベントキャンドル、ベツレヘムのろうそくに火がともりました。そして、イエスキリストのろうそくにも火が灯りました。ごいっしょに、クリスマスを祝いできることを感謝いたします。例年であれば、今日の午後は、愛餐会を開くのでしょうが、今年は特別ですね。もしかして来年の冬まで長引くかもしれませんが、コロナが収まってからでないと、そのような行事も思うようにできないのが残念です。

 

 今日は、ヨハネによる福音書の世界観の中から、イエス様の誕生の意味を考えてみたいと思います。

はじめの1~18節は「ロゴス賛歌」と呼ばれますが、今日はその14節までを選びました。ロゴスとは、ギリシャ語で「言葉」のことです。ロゴスの元の意味は、言葉、言語、話、真理、真実、理性等を広く差しています。キリスト教では、ロゴスは神様のみ言葉とされ、イエス・キリストの本質を指します。神様のことと、神様のみ言葉について、またみ言葉が人となられたことについて、今日の聖書の箇所は証しをし、賛美しているのです。

 

 「ヨハネによる福音書」は、その出だしから、他の福音書にないスケールの世界観をもってはじまります。

この賛美の背景には旧約聖書があります。旧約聖書の一番最初にある天地創造の物語を思い出してみましょう。

『1:1 初めに、神は天地を創造された。』

 

 創世記によると、最初に神様が存在していました。神様しかいない世界、そこから天地創造の物語が始まります。一方でヨハネによる福音書は、神様はどんなお方なのかもあわせて、天地創造について語っています。


ヨハネ『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。』


 初めにみ言葉があって、そのみ言葉は神様自身でもあった。そして、すべての物は、み言葉によって成った。

このようにヨハネによる福音書が言っているわけです。まるで見てきたような表現ですが、ヨハネによる福音書の著者がそれを見ていたわけではありません。当然ですが、天地創造のときヨハネによる福音書の著者は生まれていません。ですから、この記事は著者がイエス様への信仰を書き表したものだと言えます。

 イエス様は、天地創造の時から、そこにいらっしゃった。・・・・・イエス様は神様です。そのことを、ヨハネによる福音書は告白しているのです。

 

 天地創造について、こんな疑問を抱いた人が居ます。神様は、その天地創造の時にどこにいらしたのでしょう?そして、何をしていたのでしょう? ある神学者は、それに対して、「どこにもいない」「何もしていない」と答えました。そこにはみ言葉しかなくて、天地はまだ造られていません。また、天と地が存在しないだけではなく、時間も存在していないのです。天地創造の前に存在したのは、み言葉だけです。ですから、「神様は創造の時まで、何もしていなかった」と説明するわけです。この説明は、示唆に富んでいると思います。神様が、創造の業をする前に何もしていなかったからこそ、この最初にした創造の業でできたこの世のことを一番に愛してくださっている。・・・そう信じたいですね。そしてイエス様が神様だと信じるならば、イエス様はみ言葉自身であり、この世を創造された神様であるはずなのです。このような考え方で書かれたヨハネによる福音書は、キリスト教の教えに大きな影響を与えるわけです。

 

ユダヤ教では「唯一の神」を教え、礼拝することが伝統的に守られていたわけです。そこに、イエス様が現れたわけですから、この世を創造された神様ご自身がイエス様ということになります。神様は一人しかいないので、イエス様はこの世を創造された神様ご自身なのです。そのことを説明した教えが、三位一体だったと言えます。

私たちクリスチャンは、この神学論争の結果として、「父み子み霊の神様」を 受け入れ 信じているわけです。私たちは専門の神学者のようには、理解し説明することは難しいことです。そもそも、神様のことをお話しようとしても、自分の知識や体験で説明するには限界があります。それでも、信じることは私たちにもできるのです。学問的な研究は専門家に任せて、その結果を丸ごと受け入れてしまうことも良いのかもしれません。なぜなら私たちは、神様のことを一部しか知ることはできないからです。

私たちが神様のことを畏れ、自分の知恵ではなくイエス様のみ言葉に従うこと、そうして与えられる平安。その平安に感謝する生活で十分なのです。神様は不思議な方、ですから私たちの理解を超えた方です。私たちはその不思議を解き明かそうとするよりは、その不思議な神様の業を信じ、そして導かれることを祈っていたいです。そして、神様は信仰の対象です。私たちに解明できるお方ではありません。神様のすべてを解き明かそうとしても、多くの不思議は残るのです。

 

 天と地を作られた、その後の主題も、やはりみ言葉となります。このみ言葉こそが神様の独り子イエス様であることを私たちに気づかせてくれます。

ヨハネ『1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』

イエス様こそが、人間を照らす光であった。このことは創世記でもこのように書かれています。

『1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』


 創世記が語るのは、「地の闇が深いところに、み言葉が 光で照らし出した。」ことです。つまり、私たちの住むこの世の暗さを照らし出すために、神様の独り子であるイエス様は、その栄光にありながら この世に降られたのです。

 

 24日(木)にキャンドルサービスをしますが、できるだけ「ろうそく」の光だけで礼拝を守りたいと思います。ろうそくの明かりと言うものは、周りが暗ければ暗いほど、きれいに輝きます。こうして、まっ暗闇の中に降ってこられたイエス様は、強い光を放たれるのです。そして、暗闇が深いほど、その光を吸い込んでしまいます。暗闇は、イエス様の光を受けて照らされれば、明るくなるはずです。しかし、イエス様の光に照らされるのを嫌いました。


 バプテスマのヨハネが居ました。イエス様のいとこです。バプテスマのヨハネは神様から、この世に使わされました。イエス様の光を受けて照らされるように、「罪を悔い改める」ことを教えました。つまり、イエス様から照らしてもらえるように、その下準備を人々に向けてしていたのです。そして、バプテスマのヨハネは、人々にバプテスマを授けながら、イエス様のことを証ししました。人々にイエス様を信じてもらうためだったのです。バプテスマのヨハネは、救い主ではありません。救い主イエスキリストを証ししにやってきたのです。そして、イエス様はこの世に来て下さり、すべての人を分け隔てなく照らしているのです。

 

 ヨハネによる福音書は続けます。

ヨハネ『1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。』


なんと皮肉なことでしょう。もともと、み言葉があって この世が出来上がりました。天地創造の出来事です。そして、み言葉はこの世と共にいてくださいました。しかし、この世はその造り主であるみ言葉を認めなかったのです。この天地を創造してくださったイエス様を、そのイエス様に造られたにすぎない者が認めなかったのです。

 確かに2000年前イエス様は、ユダヤの民のところに来られました。しかし、ユダヤの民は、イエス様を十字架にかけてしまいました。受け入れられなかったのです。しかし、すべてのユダヤ人や異邦人がイエス様を受け入れなかったわけではありません。イエス様を受け入れ、信じる人々には、「神の子」となる資格を与えられたのです。神の子とはふつうはイエス様のことですが、ここの神の子とは「イエス様を信じる者たち」のことでもあります。ですから、ここはクリスチャンとなることを許されたという意味になります。

 

 ヨハネによる福音書は続けます。

ヨハネ『1:13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神様によって生まれた。』のです。なぜなら、み言葉なる神様は、イエス様という肉体を持った姿で、私たちの間に来られたからです。そして、ヨハネによる福音書の著者と仲間たちは、そのイエス様の栄光の姿を見て共に歩みました。そして、こう証しするのです。


ヨハネ『1:14bそれは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』

 

 今日はクリスマスです。クリスマスでは、イエス様の誕生をお祝いします。イエス様は、神様ご自身の本質そのものであって、イエス様自身が天地創造をされました。そして、私たちが暗闇にいることを気掛けてくださいましたので、ご自身が神の子としてこの世に下ってくださいました。そして受難と復活の出来事が神様ご自身の計画によって進められたのです。こうして、私たちはイエス様に導かれここに集っています。感謝なことです。闇の中ではなく、イエス様の光の中で生活できている事、そして将来もイエス様は私たちを照らし続けてくださいますから、感謝です。イエス様に感謝して、この喜びを周りの人々に告げ知らせましょう。