Ⅰコリント12:14-26 

キリストの体

2022年 8月 7日 主日礼拝 

キリストの体

聖書 コリントの信徒への手紙 12:14-26           

 おはようございます。今日は、コリントの信徒への手紙一からみ言葉を取り次ぎます。コリントの信徒への手紙は、一と二が残っていますが、本当はもっと(少なくともあと3)手紙が書かれていたとされています。この手紙をパウロが書いたのは、第三回伝道旅行のとき、エフェソに長期滞在中でした。そのころコリントの教会が、分裂しようとしていることを、パウロは知らされていたからです。具体的にはパウロもこのように書いています。

Ⅰコリ『1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。』

 キリストの体であるコリントの教会は、4つのグループが分かれようとしていることをパウロは聞いていました。そしてキリストではなく人でしかない、「パウロやアポロ、ケファ」に従うとか、キリストに従うとか、言い合っているわけですから、教会の人々はキリストの体であることを忘れてしまっているようです。パウロは、コリントの教会を作った時の伝道者であり、アポロはエフェソの教会から派遣したコリントの責任者であり、ケファはキリスト教を代表する使徒ペトロのことですから、3人ともキリストの伝道者であります。キリストの教会は一つなのに、3人の伝道者を、自分の好みによって選んで、この人の教えが義しいとして、言い争っていたということになります。このように、言い争うのは、イエス様が十字架にかかって私たちの罪を贖われたのに、またさらに罪を犯すようなことです。パウロやペトロやアポロが、十字架にかかったわけではないのです。また、バプテスマはイエス様の名によって行われたものです。パウロやペトロやアポロは、イエス様に代わることはできないのです。


 さて、人間の体には、生きるために必要な機能をもった器官。見たり、聞いたり、しゃべったりできる特徴のある目、耳、口などの各器官があります。生きるために必要なものばかりですから、切り離すことはできません。さらに、各器官は、専門性が高く、ほかの器官で代替えは困難です。体のすべての部分が、一つの器官の専門性によって恩恵を受けているわけです。もし、一つでも体の器官が切り離されてしまったら、人間の体全体としての機能が下がってしまいます。ここで、教会に集まる人々を各器官だと考えると、一人一人が かけがえのないものだと言えます。教会に集まる個性あふれる人々の誰一人でも欠けてしまったならば、教会は教会としての機能を低下させてしまうのです。そして、もっと大事なことですが、イエス様が集められたこの教会の人々を切り捨ててはいけませんし、自分自身も含め誰であっても切り捨てられてはいけないのです。そのためには、それぞれがお互いに、理解しあって、協力しあうことです。ところで、お互いに理解するにはどうしたら良いのでしょうか?

 教会に集まる人々にはそれぞれの個性があります。そして、その個性をそのままで、ありのままに理解しあうことを考えてみたいと思います。理解するということには、たくさん意味がありますが、ここでは3つ申し上げます。「その人のことを知って認めること」、「その人の心情をくむこと」、および「その人をまるごと受け入れて同意すること」であります。まずは、どういう人なのか、どういう体験をしてきたのか、どんなことを考えているのか等を知らなければ、理解は始まりません。そして、その人の立場になって考えてみること。ここまでは、何とか私たちでもできることだと思います。そして、イエス様のように「その人をまるごと受け入れて同意すること」は、私たちには、大変難しいです。しかし、問題はありません。イエス様のようにその人の全てを受け入れることができない私たちですが、イエス様は理解してくださるはずです。ですから、「その人の心情を察しても、その考えには反対」という状態は、想定できることであります。そんな時は、黙っていないで、「どうしても同意できないので反対しますと」伝えることが必要です。なぜなら、相手にとってはそのこと自身が「私を知って認めること」となり、理解しあうスタート地点に立てるからです。ですから、お互いに理解しあうと言うことは、「相手の考えに賛成することを強要する」ものではありません。理解しあうとは、相手を知って、そして相手の立場でも考え、そしてその考えた結果を伝えるというプロセスそのものだといえます。ですから、お互いの個性や考えを尊重しますが、同じ個性を持つことや、同じ考えを持つことではないのです。お互いに生きてきた人生も違いますし、そこにあるイエス様の導きや祈っていることもそれぞれ違います。ですから、イエス様によって聖霊が働かれていることを確認しあうこと。つまり、イエス様についての証を共有していくことが、私たちが理解しあうためには必要なのです。このように、考えが同じではなくても、「イエス様に導きかれた」との証を共有しあうことによって、教会は多様性のある(カラフルな。今どきはダイバシティ等と言います)集まりとなるのです。

 逆に、カラフルでない群れ、つまり「自分と同じ考えの人と一緒に」集まってしまうことについて考えてみましょう。言い方を変えると、意見の違う人たちと距離を置いた集まりになるわけですから、意見がまとまりやすいという反面、その分裂した集まりの中からは多様性は生まれないと言えます。そして、似た人が集まっていたにしろ、いつかまた意見がわかれる時が来ます。その時は、また分裂を繰り返します。つまり、「自分と同じ考えの人と一緒に」という行動をとるならば、必ず小さな群れに分かれていきます。ですから、その群れは成長する間もなく、消えてしまうと思われます。多様性を失うと、存続すること自体が難しくなるのです。

 さて、多様性という言葉は今まであまり聞かなかったかもしれませんが、最近はSDGs(持続的開発目標)というテーマのもとに多様性が必要だとの考えが広められています。社会や企業等の組織にとって、多様性がないと持続ができないと考えるからです。ここで上げられる、多様性とは、人種、性別、思想などのことを指します。例えば、国会や地方議会の議員に多様性がないと、特定の人の考えによって、法律や条例が決まってしまうことが指摘され続けています。家がお金もちで、二世政治家だったり、高級官僚や弁護士出身で、男性のお年寄りという、非常に人数的には極めて少数の群れの出身者が政治を動かしていることを、皆さんは知っています。それのどこが悪いかと言えば、その議員構成に多様性がないわけですから、政策を考えるための視点や感覚が、大多数を占める一般庶民とかけ離れてしまうわけです。政治が世間のニーズを拾い上げるようになるためには、議員さんもカラフルである必要があるのです。

 そういう視点から、教会も同じでカラフルである必要があります。教会も同じ意見を持つ人や、その同調者ばかりになったのであれば、社会の変化についていけなくなってしまいます。ですから、教会でも多様性が必要なのです。そして、私たちの教会が多様性を持つことで、いろいろな信徒を教会に招き伝道していけるのです。パウロが異邦人に伝道したことも、多様性の一つでした。この多様性への取り組みが教会の成長を生み、その結果キリスト教は全世界に広がったのです。

 さて多様性が生まれるためには、いろいろな人が集まれば、それでよいのでしょうか? カラフルな人員構成だったとしても、それぞれが閉じこもっているならば、それは、多様性とは呼べません。多様性に必要なのは、いろいろな人と交わって、いろいろな考えを聞くことから始まるからです。さかさまにして言いますと、「外部からの良いアイデアや指摘」を頂いても「取り入れる気がない」人たちの集まりでは、どんなにカラフルな人員構成でも、多様性は活きません。こういう集団では、環境の変化にあわせて変わっていくことができるわけがありませんので、時代に取り残されていくでしょう。持続可能であるためには、自分と異なる性質、考え等を認め合って、そして取り入れようとする風土が必要です。そして、他の人の考えを一つの考えとして認めるということは、自分の考えを認めてもらいやすい環境をも導きます。つまり、他の意見を聞くことと、一つの意見として認めることは、理解しあうことの第一歩であります。

 人間の体に話を戻します。強く見える器官が、弱弱しく見える器官をさして、「あなたとはかかわりを持ちません」と言い出したとします。本当に切り取って、捨ててしまうのは、キリストの体である教会を切り分けることになってしまいます。キリストの体である教会には、そのようなことがあってはなりません。ある人から見て「弱く見えたり、見苦しいと思われたり」しても、体の各器官、目や耳や口などの各器官はそれぞれの役割に対して機能しているからです。同じように、キリストに結びつくどの一人も教会にとって「かけがいのない存在」として教会の役割をになっています。パウロはそのことをさらに強調してこのように言います。

『12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。』

 これは、どういう意味なのでしょうか?パウロは、「体中のすべての器官が、強いよりも、弱く見える部分があった方がよい」と言うわけです。普通ならば、見栄えの悪い部分は隠して、見栄えをよくするものです。しかし、神様は教会を作る時に、「見劣りのする部分を一層引き立たせて、体を組み立てられました」とのパウロの説明です。パウロは、コリントの教会が4つのグループに別れようとしていることを指して、神様がそのように「見劣りする部分を引き立て」て教会を作ったというのです。神様がコリントの教会を分裂しそうに作られたのは、分裂しないように注意をはらってもらうためなのでしょうか?実際、クロエの家の人たちの配慮で、パウロが動いているわけですから、「見劣りする部分」は、補強され続けたのです。ですから、分裂しようとしている人たちがいることで、むしろ教会全体がまとまれたのでしょう。そもそも、一体である教会が本当に分裂してしまったのなら、一部が欠けただけでも、すべての教会の人たちが苦しむことになります。また、その逆もあります。喜ばしいことも、そのことが起こった一部の人の喜びではなく、教会全体の喜びなのです。

 聖霊は「キリストはイエスである」という信仰と告白を導いています。そして、信徒一人一人に賜物を分け与える働きをしていました。そして、ここではこの同じ「一つの霊」が、人種・身分を超えて一つのキリストの体である教会を作ってきました。聖霊がいつも、キリストの救いの業とそれを証する宣教から離れることはありません。キリストが人種・身分等の違いを超えてあらゆる人をご自身の体(教会)の働きに与らせるようとしておられます。

 そして、キリストが教会の一人ひとりを御自身に従う者としてくださり、キリスト御自身の体の一部として認めてくださいました。その恵みの全てに与らせてくださるのが、聖霊の働きであります。

 ですから、キリストの体となるように私たちをつなげているのは、聖霊の力と働きです。その役割は、人間が担っているのではなく、聖霊の力と恵みに与って結び付けられているのです。私たちは、その恵みに与りながら、イエス様に祈って信徒同士が教会の一部であることに感謝しつつ、兄弟姉妹のことを理解し、そして協力して教会を支えていきたいと願うものです。イエス様の恵みと聖霊の働きに感謝してまいりましょう。