2024年 6月 30日 主日礼拝
『見ないのに信じる』
聖書 ヨハネによる福音書4:43-53
今日は、6月16日の宣教で用いたサマリアの女の記事の続きからお話します。シカルの町で、二日間滞在したイエス様は、その後ガリラヤへと向かいます。
イエス様はガリラヤに着いて、44節の「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言いました。これは伝統的な諺そのものであります。ですから、4つの福音書それぞれの書かれた背景から、イエス様の言おうとしたことを読み取ることが必要です。マタイ(13:57)、とマルコ(6:4)では、「しるしを見せたのに、故郷では敬われないし、信じてもらえない」というニュアンスであります。一方で、ルカ(4:24)では、少し違ってきます。「近くのカファルナウムで、しるしを見せているのに、どうして故郷でしるしを見せないのか?」と故郷の人々が思っていると イエス様は気づいていました。そして、イエス様はしるしを示すことなく、故郷を立ち去ったのです。ルカの記事は、暗に「故郷の人々には、信仰が無い。だからこの信仰の無い故郷でしるしを示すことが出来ない」と言っているわけです。さらにヨハネは、相当に違います。「信仰のない者はしるしを求める」と言うのがヨハネの理解のようです。つまり、「しるしを見る前に信じなさい」との教えであります。
ところで、故郷で敬われないと言ったイエス様は、歓迎されていました。
『4:45 ~ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエス様を歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエス様がなさったことをすべて、見ていたからである。』
ガリラヤの人々はイエス様を信じて、歓迎しているのです。それなのにイエス様は、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』と、言いました。歓迎されたのは、イエス様を敬ってのことではないことを 知っていたのでしょう。・・・もう一点、気になることがあります。イエス様が言ったのは諺だということです。それは、イエス様の言いたかった言葉そのものではありません。むしろ、後で言うこの言葉が本心だと思われます。
『4:48~あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない~』これは、イエス様が役人に言った言葉です。
さて、しるしと言う言葉が気になってきますね。ヨハネによる福音書は、しるしを強調した福音書です。たとえば、ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回出てきます。他の福音書の中では5,6回しか出てきません(マタイ6回、マルコ5回、ルカ6回)。ですから、ヨハネによる福音書は「しるし」にこだわっているのは事実です。特に、「最初のしるし」とユダからガリラヤに降ったときの「二回目のしるし」については、「救いが来た事」を象徴しています。この二つの記事は、ヨハネによる福音書特有なのです。
そういうわけで、ここでヨハネが強調したかったのは「故郷の人」に限ったことでは無いようです。ヨハネは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と伝えたのだと思われます。
ガリラヤでイエス様を歓迎した人々の中には、エルサレムでしるしを見て信じた人々がいました。それは『4:45~彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエス様がなさったことをすべて、見ていたからである。』との記事から読み取れます。しかし、「イエス様を歓迎したガリラヤの人々がすべて、イエス様を信じていた」のでしょうか?。イエス様自身も、エルサレムでしるしを見せた後、このように言っています。
ヨハネ『2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。』
この記事から、エルサレムでイエス様のしるしを見て信じた人々を、信用していなかったことがわかります。イエス様を歓迎したガリラヤの人々も同じだと言えるでしょう。
ところで、「しるし」とは、どういう意味でしょうか?新共同訳の解説には、このように書かれています。
「「奇跡」「しるし」「不思議な業」,この三つの言葉は同様の意味で,しばしば一緒に用いられている。いずれも,人間の理解を超える,驚くべきことであるが,神の力とその支配を示すしるしを意味する(詩 78:43,105:5,ヨハ 4:48,使 2:22,2コリ 12:12)。」
しるしを見るということは、神様の不思議な業の一部を見るということです。しるしを見て信じるその信仰は、見た人によって人それぞれであります。見たこと聞いたことそのままをまるごと信じる人もいれば、まだ知らない不思議な業も神様ならば引き起こすだろうと信じる人、そして、神様は最善を備えてくれることに信頼する人もいます。また、極端な場合、見たことだけを信じる人もいるはずです。たぶんその人は、見たことしか信じないので、まだ見ていないことを求めて、どこまでも貪欲にしるしを求めると思われます。このように、神様が与えて下さる一方的な恵みに信頼しないならば、今も、明日も、その先も、ずーっと目の前のしるしが欲しがるのです。
ヨハネは、この福音書全体のメッセージとして、「しるし」について、こんな記事を書いています。それは、しるしについての福音書を締めくくる記事、イエス様と使徒トマスとの会話です。
ヨハネ『20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』
このように、「しるしを見ないのに、信じる者は幸いである」というメッセージがヨハネによる福音書全体で表わされているわけです。
今日の記事の土台にあたるのは、カナの婚礼で示されたしるしです。イエス様は、水をぶどう酒に変えました。これは、イエス様の起こした「最初のしるし」であり、神様の救いのはじまりでもあります。そして、今日の箇所の「二回目のしるし」が、信仰による救い のはじまりであります。そして、ヨハネが、結びとして用意したメッセージは、イエス様の復活を信じなかったトマスへの、この言葉なのです。
ヨハネ『20:29~「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」』
イエス様の二回目のしるしは、サマリアの町シカルに滞在してから、ガリラヤに入ってきた時のことです。イエス様に会うために一人の男が訪ねてきます。この人は、カファルナウムに駐在する王(実際は4分割領主ヘロデ・アンティパス)の役人でした。彼の息子が病気になって、その病状は深刻でした。死にかかっていたと聖書は伝えています。この役人は、イエス様がガリラヤに来たと聞いて、訪ねてきたのです。そして、イエス様に近づいて、カファルナウムに来て息子を癒やしてもらうように頼みます。しかし・・・
『4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。』
このイエス様の言葉には戸惑いを感じます。死にかけている息子のためにわざわざ訪ねてきた役人に対して、この言葉は、あまりふさわしくありません。
しかし役人は、息子を助けてもらいたい その一心で、イエス様に訴えます。この役人にとって死にかけている息子が癒やされるために 必死なのです。
『「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」』
この役人は、とっさにそのように訴えます。・・・人は、切羽詰まると冷静さを失って、本音を言ってしまいます。そして、役人のこの言葉こそが本音であるのでしょう。この役人は、「イエス様がカファルナウムまで来てもらいさえすれば、息子は死ぬことが無い」。そう思っているのです。つまり、イエス様に信頼し、イエス様を信じているのであります。
ヨハネは、このことを二回目のしるしとして福音書に残しました。「神様の救い」のしるしの次に、「信仰による救い」のしるしを位置づけたのです。
このとき、イエス様は言います。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
この役人は、イエス様の言われた言葉を信じて帰りました。何故彼がイエス様の言葉を信じたのかは分かりません。しかし、結果だけは明確です。事実、彼は、イエス様の「生きる」との言葉を信じて帰りました。
この役人がカファルナウムに帰る途中、僕たちが迎えにやって来てます。そして僕たちは、彼の息子が生きていることを告げます。そこで彼は僕たちに、いつ息子の病気が良くなったのか?と尋ねます。僕たちは「きのうの午後一時に熱が下がりました」と答えました。それは、イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われたその時でありました。
福音書は、「イエス様の言葉は成就する」との信仰に立っています。しるしや不思議な出来事を見てからなら、私たちはイエス様の言葉を信じるでしょう。しかし 「見ないのに信じる」ことも出来るのです。それだけではありません。イエス様の言葉は、出来事を起こす言葉。そして命をもたらす言葉なのです。ですから、今日の記事は、「イエス様の言葉は成就する」と信じる役人の信仰と、「イエス様の言葉による」救いの出来事なのです。この二つがあって、信仰による救いがもたらされるのです。
ヨハネは、この出来事を「二回目のしるし」と表現しました。この物語は、イエス様が神様であるとのしるしであります。そしてこの出来事を聞いた全ての人が、この役人と同じように「イエス様の言葉を信じる」そして、「しるしを見ないのに信じる」ことをイエス様は願っているのです。
「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とイエス様は言いました。このようにイエス様は、身内からも拒まれ、十字架で自らの命を献げるためにこの地上に来てくださいました。しかも、敬われないことを知っていながらです。それは、私たちを救うためでした。・・・そして人々は、しるしを見なければ信じませんでした。だから、「しるしを見ないのに信じる」 この役人の信仰が、素晴らしいです。この信仰によって、役人の息子の命とともに役人自身の霊に命が与えられました。私たちも与りたいです。しかし、12弟子のトマスでさえ、「見たから信じた」のであります。私たちには「見ないのに信じる」ほどの強い信仰はありません。だからイエス様に祈り求めていただくしかないのです。その救いをもたらすイエス様に感謝いたしましょう。