Ⅰヨハネ2:1-11

 の中を歩む

 2023年 5月 7日 主日礼拝

光の中を歩む

聖書 ヨハネの手紙一 2:1-11           

今日は、ヨハネの手紙一から、み言葉を取り次ぎます。ヨハネがこの手紙を書いた時期ですが、長生きしたと言われるヨハネの晩年にあたるようです。「私の子たちよ」との呼びかけが、老人が教え子を呼ぶときに使われる言葉ですから、老人が書いた手紙と言えます。ヨハネが弟子たちに是非書き残したくて、この手紙を書いたと推察できます。

 当時は、アンチ・キリストの問題がありました。キリストに反すると言う意味でアンチ・キリストですが、この時代に「キリストはイエス様のことである」。このことを認めない人々の言動が問題でした。そして、偽の教師が現れて、勝手な教えでもって人々を惑わします。そういった、暗闇の時代だったわけです。ヨハネが伝えたかったのは、イエス様について見聞きしてきたことそのものです。イエス様こそ、救い主であるキリストであると信じてもらうために、イエス様のことを正しく教えようとして、この手紙を書いたのです。

 ヨハネ自身が、その目的についてこのように書いています。

1ヨハネ『1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。』

そして、もう一つの目的が今日の聖書箇所には書かれています。

 『2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。』


 それは、「あなたがたが罪を犯さないように」なるため。罪を犯すとは、言うまでもありませんが、犯罪を犯すことだけではありません。神様に背くことでもあります。ほかの神々を礼拝することや、神様を受け入れない事も罪に含まれます。神様を愛して、神様に導かれている人ならば、罪を犯そうとはしません。しかし、それでも私たちは罪を犯してしまいます。ですが、安心してください。神様のところには、私たちを守ってくださる正しい方キリストであるイエス様がいて、神様にとりなしてくださるのです。それは、神様に対する事だけではありません。実際私たちは、人に対しても罪を犯してしまいます。犯罪とまではいかなくても、後ろめたいこともやってしまうのです。しかし、これもイエス様がとりなして下さいますので、私たちは、イエス様によって守られ、そして良き解決も示されるのです。

ここに慰めがあります。

 それにしても、神様は寛大なものです。私たちの常識で言いますと、罪を犯した者はその罪を償(つぐな)わなければなりません。それが、何の償いもなしに、赦されるわけです。それだけ、弁護する者として偉大なのです。「正しい方、イエス・キリスト」には、全ての罪を赦す権威があります。そして、私たちを愛していますから、神様にとりなして助けてくださるのです。


 さて、キリストはどのようにして、私たちを助けるのでしょうか。・・・・それは、弁護士のように罪を軽くするとか、利益を誘導するような交渉をしてくれるわけではありません。その罪を丸ごと赦すようにと、神様にとりなしてくださるのです。そのために救い主であるキリストは、私たちの罪の代価として、生贄となりました。このキリストの贖いによって、私たちの罪は赦されるようになりました。

 そして裁判官である神様は、キリストの助けを受けた私たちに無罪を宣告するのです。それは、私たちが何か良い事をしたからではなく、神様が一方的に与えられる恵みです。キリストが私たちの罪のために、そして、全人類の罪のために生贄となったからです。キリストであるイエス様は、私たちのことを愛してくださっていますから、一方的に助けてくださるのです。


 ここで、私たちの罪は無くなったわけではありません。神様は、人の罪に対して、怒(いか)りはそのまま続いているのです。しかし、その怒りは、イエス様の十字架によって贖われました。イエス様が一身にその怒りを受けてくださったのです。その結果、イエス様のとりなしによって、神様は私たちの罪を赦してくださるのです。イエス様の十字架は、私たちの罪に対する神様の怒りを完全になだめてくれます。ですから、どんな罪でも赦されます。イエス様は必ず助けてくださるからです。神様はこの正しいイエス・キリストのゆえに、私たちを完全に赦してくださいます。それは私たちだけでなく、イエス様を信じるすべての人も赦されます。また、それは今までの罪だけではなく、これから犯す罪も含めて、すべての罪は赦されるのです。


 さて、罪が赦されたなら、私たちはどのような生活をしたらよいのでしょうか?神様の命令を守るとは、どういうことだったでしょうか?。イエス様の教えた神様の命令(掟)はこの2つでした。

マルコ『12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』

神様を愛する。そして隣人を愛する。これを守っている人ならば、神様を知っている人で間違いないでしょう。もし、神様を知っているのにこの命令を守っていないのならば、その人は正しくありません。嘘つきで、不誠実だと聖書は断言しています。一方で、神様の命令を守っている人は誰でも、神様の愛を受け取って、その人の内に神様の愛が働きます。ですから、イエス様の歩まれるように、神様に従って歩むべきであります。 私たちが神様を知り、神様が私たちを愛してくださっていることを知ったならば、私たちは神様が言われていることに喜んで聞き従うはずだからです。けれども、神様を知らなければ、自分の思いにあわせて生きてしまいます。またその生き方が楽しく自由だから、それこそ人間らしさだと思うかもしれません。しかし実態は違います。罪の奴隷として欲望にあやつられているだけなのですが、本人にはそのようには見えません。なぜならば、神様を知らないからです。 しかしそのような人でも、神様を知るならば、変化が起こります。神様の命令やみ言葉がその人の内で喜びとなり、道しるべとなります。神様のみ言葉に従って正しく歩みたいという願いが起こされるからです。


 では、イエス様はどのように歩まれたのでしょうか。神様の命令を守るとは具体的にどういうことなのでしょうか。2章の7,8節にはこうあります。

『2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。』

 ヨハネがここに書いているのは、新しい掟ではないとの説明です。先ほどマルコから、イエス様の掟についてお話ししました。「神様を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい」この2つは、すべての旧約の律法にかかわっています。そういう意味で、もともと教えられていたことなのです。しかし、ヨハネはこのことをあえて「新しい掟」としました。それは、イエス様がこの世に降って、そして十字架の死を遂げ、復活したからです。私たちと神様は分断されていましたが、イエス様がその間を取り持って、神様との間に平和がもたらされたのです。人には守れなかった神様の命令ですが、イエス様の助けがあれば、私たちにも守れるのです。また、守れなくても、同じようにイエス様が間を取り持って、神様の赦しを取り付けてくださいます。私たちには、赦しと言う罪からの救いが用意されているわけです。そこに、イエス様を信じる平安、つまり赦しを受け取ることが出来る平安があります。そこには、「光」があります。「イエス様の照らす光の中にいる」。そう、何があっても、心が暗くならないのです。しかし、ヨハネは、このように警告します。


『2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。』 


 これは、「神様を愛し、隣人を自分のように愛している」と言っていながら、実際の行動を見ると「兄弟を憎んでいる」。そんな矛盾に対する警告であります。兄弟というのは、同じキリスト教徒同志を兄弟と呼びますが、同じ神様を愛する信徒を、そして隣人を愛する信徒を憎むとは、何処かがおかしいですね。そういう人には、イエス様の光が足りていないのだと思われます。本来光の中にいるはずの信徒なのに、その光を遮っているのです。神様を愛しているのか?、隣人や兄弟を愛しているのか?そういう自己吟味が大切ですね。


 では、どうしたら隣人や兄弟を愛することができるのでしょうか。私たちには生まれつき、自分さえ良ければいいと言った自己中心なところがあります。そのような罪ある者がどうやって隣人や兄弟を愛することができるのでしょう?。それには「神様を知る」こと。そして、「神様を愛する」ことによって、「神様の愛にとどまる」ことが必要です。しかし、私たちは自分だけでは成し遂げられません。イエス様の助けが必要なのです。イエス様を信じて、イエス様を通して祈るからこそ、神様は私たちを赦し、そして神様の愛を注いでくださるのです。


 イエス様が「光」であるように、私たちが神様にイエス様を通して祈るときも、私たちは「光」を放ちます。これは、神様の愛への応答であります。そのためにどのように歩むべきか?。それは、自分が罪人であることを告白し、イエス様の十字架によって罪を赦されると信じることです。私たちの行いだけでは、罪を贖うことは出来ません。だから、イエス様に より頼んでイエス様に「助けを求める」その信仰によってこそ、光の中を歩めるのです。すると、私たちは、少しづつですが、変えられ、光を放つようになるのです。


 この神様の交わりに加わっていることに感謝し、祈ってまいりましょう。教会は、イエス様の光の中で、隣人や兄弟たちと共に光の中を歩む交わりの場所です。その神様の恵みに与ってまいりましょう。