エゼキエル書18:21-32

新しい心・新しい霊

 

1.良い事に目を向けると人生を導き、悪に目を向けると死が続く

たとえ悪人であっても、過ちから離れ神様の掟を守る(改宗する)ならば、生きることができます。死ぬことは無いのです。なぜなら、すべての背きは行った正義のために思い起こされないからです。

私は、悪人の死を喜びません。神様は、むしろ悪人がその道から立ち返ることを喜ぶと言われます。

逆に正しい人だからと言って、不正を行い、悪人のようなことをするならば、生きることが出来ないのです。なぜなら、すべての正義は犯した過ちのゆえに思い起こされないからです。

「悪人が神様に立帰るならば生き、正しい人が過ちによって死ぬ。」ならば、悪人が悪人のままでなく、正しい人が正しいままであれば、すべての人が生きることになります。そして、その審判はいつ来るのでしょうか? そして、やり直すことが出来るのでしょうか?それは、「悪人の死を喜ばない」神様のご意志からみて、私たちがイエス様に祈ってそしてその救いに与るまで、待たれていることは確かなことだと思われます。

2.主の道は正しくない

 イスラエルの家は、「主の道は正しくない」と言います。聞きなさい、神様の道が正しくないと言うのですか?正しくないのはイスラエルの家であるあなた方の道が正しくないのではないですか?

正しい人が正しさから離れ、悪を行い、結果として死ぬならば、彼は自分が行った悪のために死ぬのです。

悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。

人間の罪は、一人一人が罪を負わなければならないという考えがあります。今、悔い改めようとしている不信心な人は生きます。そして、罪の道に目を向ける正しい人は死ぬのです。ですから、かつて正しい人であった罪人は、正しかったころの正しい行いによって支えられません。一人一人は、そのときの状態で判断されます。

それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言います。悔い改めて、改宗するのであれば、もはや悪を行うことは無くなります。いま、神様を信じ神様の道に従うことは、正しい道ではないですか?どうして、他の神々を礼拝するのですか?

 

3.すべての背きから立ち返れ

悔い改める罪人を救おうとする動機は、エゼキエル18:23で、「神は悪人の死に喜びを持たないが、彼が改宗によって立ち帰ることを望む」という宣言で与えられています。したがって、神様は単に慈悲深く優しいのであり、死に値する罪に対して誰も罰したくないのです。

 その結果、主の道は正当で正しいだけでなく、完全に根拠がなく、主の道に背く人々の死を望んでいないという矛盾を生み出します。

神様が罪人の死を望んでいないという事実は、神様の慈悲の中でその罪のすべてを犯しても、罪人本人の責任にしないで許します。また、正義の道に立ちもどって、罪を犯さないように戒めるのです。

「主に立ち帰って、生きよ」これが、神様のご命令です。

 

(参考)罪人:新共同訳聖書

 ◆罪人(つみびと) 神に背き,その律法を犯す者。「神に逆らう者」(直訳では「悪人」)と同義。しかし福音書では律法学者や,ファリサイ派から,日常の生活で律法を忠実に守らないという理由で批判された人々を指す。