コリントの信徒への手紙一16:13-24

結びの言葉

聖書研究


1.勧めの言葉

 13,14節は、少し唐突な感じがする勧めの言葉が記されています。しかし、この短い言葉は、キリストに結ばれた者として生きる上で、最も大切な教えであります。

「目を覚ましていなさい」:終末の到来、キリストの再臨を意識して、いつも目を覚ましていなさい、という励ましを与えてくださいます。キリストの救いを信じるわたしたちは、復活の命が約束されています。その望みの中で生きる者にとって大切なことは、いつもその信仰に目覚めていることです。

「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」:キリストへの信仰がはっきりしないと、わたしたちはしっかり立つことができません。世がどれほど変化しようとも、キリストが約束してくださる救いは、失われることのない確かなものです。その確かさを保証してくれるのは、キリストがわたしたちの罪を十字架で贖って下さり、復活を通して命をもたらしたからからであります。

「雄々しく強く生きなさい」:イエス様の勝利に結び付けられた者として、わたしたちの信仰は世に勝つのです。この勝利を確信して、雄々しく強く生きることが求められています。

「何事も愛をもって行いなさい」:この愛は、キリストと結び付けられた愛です。人を愛するとは、キリストを伝える心をもつことです。他者のために生きることは、己を捨てられたキリストに学ぶ以外にはできないことです。何事も愛をもって行いなさい。それは高ぶる愛ではなく、キリストへの感謝から生まれる、へりくだった謙遜による愛に他なりません。


2.パウロのお願い

 パウロは、ステファナの家族のような人たちと共に働きなさい、とお願いしています。ステファナの家族は、アカイアの地域において、初めて主を信じた人たちでありました。アカイア州とは、コリントを含むペロポネソス半島全体を指します。パウロは、この家族に直接バプテスマを授けています。聖なる者たちのために熱心に奉仕し、ともに働き、労しているから、一緒に働きなさい、と言っています。教会生活が長いからとか、年上だからとか、牧師とか宣教師とかいうタイトルがあるからとか、ではありません。

3.挨拶

 19-24節は、挨拶です。パウロが「アジア州の諸教会があなたがたによろしく」と言うのは、アジア(ことにエフェソ)の教会がこのコリントの教会に興味を持ち、そして応援をしていることを示しています。当時の教会は、それぞれ離れてはいても、互いに祈り合う関係だったと言えます。パウロは、マケドニアやアジアの諸教会で伝道し、互に祈り合う関係でした。また、パウロは具体的に彼らの支えを受けていました。また、諸教会は、エルサレムの教会に対しても支援を行っていました。ここに、異邦人教会を含めたキリスト教会全体の一致があります。パウロは、それぞれの教会が祈っていることに触れ、コリント教会が祈られ、そして孤立しているのではない事を伝えようとします。

 パウロはすべての関連ある事柄を述べたのち、一組の夫妻、アキラとプリスカについて言います。この二人は、「その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたににくれぐれもよろしく」と挨拶しています。もともとこの二人は、クラウディウス帝の命令のゆえに、多くのユダヤ人たちと共にローマを追われ、コリントに着ていました。(使徒18:2) そこで、パウロと伝道を始めた経緯があります。また、パウロがエフェソに向ったときに、二人も随行していました。その上にです。後にコリントに派遣された、アポロを見出し、福音についてアポロを教えたという経緯があります。パウロは、今彼らの名を挙げ、二人がかつて働いた「家の教会」と共に歩むコリントの人々への、心からの挨拶を取り次いだのです。そこにはキリストの愛が働いています。

 この手紙の最後で、パウロは自分の手で筆を執って挨拶を記します。(21節、ガラテヤ6:11参照)。

 (一般にパウロの弟子がパウロの言葉を、筆記していますが、最後だけはパウロが自筆で書きました。)

『22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。』

22節は、「もし主イエス・キリストを愛さない人がいるなら、その人をアナテマ・マラナタとせよ。」と言う文面です。

「アナテマ」(呪われよ)は、ギリシャ語であります。そして、パウロは突然アラム語「マラナ・タ」(主よ来てください)と言います。冷静な言葉は、ギリシャ語でありますが、より感情をこめて、アラム語では普段の叫びだと言えるでしょう。つまり、のろいの言葉ではなく、むしろ「神様どうにか助けてください」との叫びと考えて良いと思います。

 「マラナ」は単に「主」の意味で、「タ」は、来る、という動詞です。パウロの心からの大いなる叫びは、主が来たりたまうこと、主がきたもうであろうこと、主が来たもうたということ等、主が実在し、共にいて下さるとのパウロの確信の表れなのです。

 それから最後の言葉、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(23節)。

キリスト・イエスと共にあるあなたがたがあります。これが全てです。そしてもう一つ個人的に一言。

「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)

と、パウロは結んでいます。パウロも、あなたがたの一部なのです。