コリントの信徒への手紙一1:18-31

イエス様の下での一致


 第二次伝道旅行のときパウロが伝道したコリント教会は、多くの問題を抱えていました。それらの問題に対処するため、パウロは何度もコリント教会宛の手紙を書いています。新約聖書には二通の手紙(第一、第二)だけが収録されています。失ってしまいましたが四通ないし五通の手紙が書かれたことが、聖書から読み取れます。コリント第一の手紙は、第三次伝道旅行の時で、エフェソで書かれたとの説が有力です。

 コリントの教会設立後、パウロはコリント教会をアポロに委ねて去り、再び伝道旅行に出ると、エフェソの開拓伝道に力を注ぎます。そのエフェソにいるパウロの所に、「コリントの信徒の間に争いがある」との報告が届けられました(1:11)。

1.争い

 パウロが去った後のコリントでは、教会内の対立がありました。どの教会でも起こりうることですが、牧師の代替わりで、教会が分断されていたのです。第一に、だれの説教を聞いて信仰を得たのかで、ひいき目が出来ます。そして、好みもあるかもしれません。それぞれの指導者には、特徴があると思われます。

パウロ:使徒を自称するが、コリントの人々の一部は、使徒として認めていない。コリントの教会の創始者であり、霊的な説教をし、その話は難解であり、その論説は巧みではなかった。

アポロ:アキラとプリスキラに見出された説教者。論理的説教が巧みで、パウロの後継者になっています。アポロはその後コリントを去っていますから、手紙が書かれた当時、コリント教会は無牧師だったようです。母教会のエレサレム教会からの伝道者が訪れて、バプテスマを授けていたと思われます。

ケファ:使徒の中で第一人者であるペトロのことを指します。パウロの権威を認めず、正当な使徒であるこの権威をありがたる人々がいたということです。パウロが異邦人のための使徒と自認していたのに対し、ペトロは異邦人とは食事を避けるなど、ユダヤ教寄りでした。

キリスト:キリストにつくということは正論に聞こえます。しかし、キリストにつくと言って、みずから分断を招こうとするのは、どこか矛盾しています。

 コリントの教会の一部はパウロに対して、「辞任してほしい」と考えていたのでしょう。こういう時、現代の教会でも割れます。そして、牧師が辞任に追い込まれることもあります。また、その結果巻き込まれたくない信徒が教会を出ていくこともしばしばあります。

2.パウロの処方箋

 パウロは、感情ではなく、彼らの信仰に訴えて、説得します。彼は最初に教会の人々に問いました「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか」(1:13a)。教会はキリストが頭であり、教師はキリストに仕える手足に過ぎないのに、何故、手足である教師が頭であるキリストより重視されるのかとの問いです。次にパウロは「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(1:13b)と問います。キリストが死んで下さったのであって、パウロが死んだのではない。だから、あなた方は、キリストに救われたのであって、パウロに救われたのではありません。同じキリストの十字架で救われた者同志が、キリストの教会の中で互いに争うとしたら、十字架は空しいものになってしまいます。

 最後にパウロは言います「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」(1:13c)。あなたがたはキリストの名によってバプテスマを受け、キリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかに、どうしてこだわるのでしょうか?。パウロからバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロから受けた人はアポロ派になる。そんなことでは、キリストを信仰していると言えるのでしょうか?。バプテスマとは水に入ってキリストと共に一度死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることです。その「キリストに結ばれる行為」が何故、「人に結び付くのか」とパウロは問いかけます。

 パウロは、「あなたがたがキリストの十字架での救いを真剣に受け止めないから、教会が分断してこのような争いが起きるのだ」と語ります。彼は手紙の中で述べます。

『1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。

 私たち人間の本質は「自己中心=エゴ」です。このエゴが教会を壊してしまいます。「私はパウロに」、「私はアポロに」、と主張する時、そこには、主語“私”しかありません。主語が“私”から“キリスト”になった時、正常な信仰へと回復するでしょう。また、成熟した信仰者が集まるならば、争いは起きません。意見の違いはあっても、違いを認め合い、そして「キリスト」が何を望んでいるかを、判断していくからです。

3.愚かな事の成就

 キリストは十字架にかけられて殺されました。処刑された人間が「神の子」、「メシア」であると主張することは、愚かであり、信じがたい事柄です。しかしパウロはそう語りました。人間は戦争を、殺し合いを止めることが出来ない。殺し合う、相手を排斥することこそが人間の本質であります。それを文字通りに実行したのがキリストの十字架なのです。

 そもそも十字架は絶望のしるしです。イエス様は十字架上で「わが神、何故私を棄てられたのか」と叫んで死にました。しかし神様は、そのイエス様を十字架の死から復活させ、絶望を希望へと変えたのです。