ペトロの手紙3:13-22

神の御心

 2021年 7月 25日 主日礼拝 

神の御心

聖書 ペトロの手紙一3:13-22 

おはようございます。今日はペトロの手紙1からみ言葉を取次ぎます。ペトロとは、福音書に出てくる使徒ペトロのことです。本文中にも『イエスの使徒ペトロ』と名乗っていますので、間違いないでしょう。時期的には、AD64年-65年にペテロによって書かれたと考えられています。

そして、そのあて先ですが、

1ペトロ『1:1ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている』と書かれていますので、パウロと共にペトロが伝道をした小アジア5州の異邦人に向けて書かれた手紙だと考えられています。

時代背景としては、ネロ帝(AD54~68)の時ですから、キリスト教への組織的な迫害があった時期です。それ以前のローマ皇帝もユダヤ教の迫害をしていますが、クラウディウス帝がAD51年に出したユダヤ人追放令のように、比較的緩やかなものでした。ネロ帝の時代には、異邦人キリスト者が、ユダヤ教と距離を置きだしたため、ローマでは、キリスト教をユダヤ教徒とは区別し始めたようです。そして、AD64年のローマの大火が起こったときに、ネロ帝が火をつけたとのうわさが広まったため、ネロは犯人を作らないと収まらないと考えました。そして、ユダヤ人とキリスト教徒が住んでいた地域だけが、焼けずに残った事から、キリスト教徒がローマに火を掛けたことにしてしまいました。明らかに、恣意的であって、公平な裁きではありません。こうして、ネロ帝はキリスト教を狙った迫害を始めています。ですから、ネロによる迫害が始まったさなかでの、このペトロの手紙だということを理解いただいきたいと思います。

 

今日の聖書の箇所の冒頭で、このようにペトロは語っています。

『3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。』

 

 ペテロは、クリスチャンが迫害を受けて、苦しむことを前提としています。異邦人のクリスチャンがクリスチャンであることで、軽蔑されたり、いやがらせを受けたりしても、良いことを行う事に熱心であってほしい。そういうクリスチャンの姿を理解頂いたならば、だれも迫害などしないと、ペトロは前向きに主張します。現代でも昔と変わらないで、クリスチャンへの先入観があると思います。クリスチャンであるとの先入観があると、良い印象もあれば逆もあります。例えば、「何でも批判する人」とか、「他人の信仰している神々を偶像と呼ぶ人」と、言った印象を持っている人もいると思います。しかし、実際に私たちクリスチャンの行動を知っていただくと、私たちをあざけたりする人は少ないでしょう。

ところが残念ながら、この当時のクリスチャンへの印象と言うのは、現代以上に悪かったようです。それは、クリスチャンが、「何でも批判する人」であり、「他人の信仰している神々を偶像と呼ぶ人」だからです。と言うのは、すべてのローマの生活習慣は、色々な宗教と結びついていたからです。他の神々を認めないクリスチャンがそこにいるだけで、日常の生活習慣が批判の対象になってしまい、不快なものになりました。その意味では、ユダヤ教も一神教なので同じなのですが、ユダヤ教以上に嫌われたようです。ですから、迫害は根深くて、簡単にはなくなりません。ペトロもこのように教えます。

 

『3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。』

 キリスト教徒に迫害があっても、それに耐え、苦しむこと。そうして信仰を守る事が幸せなのです。そして迫害をする人々を恐れたりパニックになったり動揺しては、いけないとペトロは教えます。

 

 このペトロの教えは、クリスチャンへの迫害が、本当に迫っていたから、この様に強い調子になったのだと思われます。「たとえ迫害をする者がいても、クリスチャンが良い行ないを続けているならば、それは信仰を守っていることです。その時は、迫害が止まらなくても幸いだと思いなさい」と、ペトロは迫害を受けるときの心構えまでも教えています。迫害を受けることを恐れて、信仰生活を疎かにしたり、動揺して良い行いが出来なくなったりするようでは、もはや幸せではない。そのように、ペトロは教えるのです。

 

しかし、命の危険を感じるような脅しを恐れないように、そして、脅しによって動揺しないようにと言われても、私たちはそれを受け止められるのでしょうか?

当時の信徒たちのように脅しを受けたり、危害を加えられたりしたら、私たちはたぶん、何も言えなくなってしまいます。

だから、ペトロは、このように言っています。

『3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。』

 

人から脅かされているときや、問い詰められている時に、私たちはその勢いに負けて、何もいえないときがあると思います。そして、ただただ言われっぱなしで、結果的に我慢してしまうのです。そのような時をペトロは想定して、「心の中でキリストを主としてあがめなさい」と教えているのです。決してペトロが言っているのは、「イエス様が主なのだから、迫害をする相手を無視していればよい」と言っているのではありません。イエス様を主としてあがめて、イエス様が働きかける時を待ちなさい」そういうことをペトロは言いたかったのだと思います。イエス様がこの現状を見て、そしてイエス様はそこに恵みの業をなさる。そう信じましょう。だから、そのときのためにイエス様は私たちの希望を聞いてくださり、そしてその希望を叶えてくださるのです。ですから、イエス様にいつでも直接、そして間接的に希望を聞いてもらえるように、私たちは語れるように準備することが大事だと思います。

 

「希望」とは、生きる望みのことです。ペトロは、こう言いました。

『1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。』

「すばらしい喜びに満ち溢れている」のは、こんな理由でした。

イエス様が復活されたこと。それによって、私たちが新しく生まれたこと。そして天にある、朽ちない財産がたくわえられていること。将来、イエス様が戻ってきてくださり、救いを完成してくださることなどです。これらは、イエス様を信じているからこそ与えられる希望なのです。

 

希望を語るとは、そのイエス様への信仰を証しすることだと思います。

ペトロは、弁明の仕方について、この様に教えています。

『3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。』

 

自分のことを悪く言ったり、害を与えようとしたりする相手であっても、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」弁明するように教えます。ペトロは、たとえ敵であっても、身内に話すように、そしておだやかで、良心をもって語るならば、相手は恥じ入ると教えます。例えば、私たちが心から思っている事であっても、相手をののしっては伝わりません。そこに残るのは、憎悪か、あきらめぐらいでしょう。しかし、どんなに相手からののしられても、敬意を払いながら、穏やかに良心を持って語れば、相手は聞いてくれます。ですから、キリストにある私たちの正しい生き方を見て、私たちをののしった人たちは、恥じ入るでしょう。なぜなら、ののしられても、良心をもって語っているその態度が、その穏やかな語りかけの上に、イエス様は確実に相手に働いておられるからです。そして、私たちがイエス様への信仰によって、良い行いをしていることを理解してくれるはずだからです。

 

そして、自分の信仰のお話をするときには、おだやかに話す必要があります。敬意を持って、そして良心をもって証しをしてください。敬意を持ってとは、相手の存在を認めて、その人の考えや価値観を尊重することです。また良心を持ってとは、道徳的に正しいことをしようとする事です。キリスト教では、信仰的に正しいことをしようとする事と説明してかまわないと思います。そのように敬意を持って、そして良心をもってお話すれば、おのずと穏やかに語ることになると思います。もし、心を閉ざしてしまい、相手への敬意も良心も忘れてしまうならば、相手も心を閉ざしてしまうでしょう。それでは後悔しか生まないのだと思います。私たちの希望を聞いてもらうならば、そして相手のお話を聞かせてもらいたいのであれば、まずは自分の心を開くことが必要です。そして、穏やかに話すことによって、お互いにイエス様の導きによって本当の心を、本当の姿をわかり始めるのです。

 

 もし、それでも分かり合えることが出来なかったならばどうしたらよいのでしょうか?ペトロはこの言葉で、教えます。

『3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。』

 

 これがペテロの手紙の伝えたいことでした。良い事を行なって苦しむことと悪を行って苦しむことを比べると、同じ苦しむにしても、神様が喜ぶ方が良いと言うわけです。

 

 そしてペテロは、罪がないのに十字架の苦しみを受けられ、私たちの罪を贖われたイエス様について話します。

イエス様も一度死なれました。私たちの罪のためにです。正しい方であるにお係わらず私たちの身代わりとなったのです。私たちを神のみもとに導くためでした。十字架の出来事の後、霊となったイエス様は、囚われていた霊たちのところで宣教をします。それは、すべての人を救うための神様のご計画でありました。

 

『3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。』

ノアの洪水の時、ノアとその息子3人そしてその妻たちの8人だけが、洪水と言う水のバプテスマを受け、救われました。しかし、残された多くの人々つまり、神様に従わなかった者たちにも、イエス様は宣教されたのです。

 ノアの時代にあらかじめ、洪水という水によるバプテスマが行われました。そして、今イエス様は、十字架の後に復活されて、私たちを聖霊によるバプテスマによって救ってくださるのです。バプテスマは、肉体の清めだけではなくて、神様に正しい良心をそして信仰を「願い求めた」その証であります。そして、ノアの時代に救われなかった多くの人々をもイエス様は宣教をされました。イエス様は一人も残すことなく、救おうとされているのです。私たちは、不完全なものですから、そのノアの時代に救われた8人のようには、強い信仰を持ちません。しかし、こうしてイエス様は私たちを愛してくださり、ノアの時代以前から今に至るまで、そして将来も私たちを招いてくださっています。

 

ですから、私たちはイエス様に支配されるよう、祈りましょう。イエス様の求めていることは、私たちの行いではなくて、イエス様を願い求める事です。たとえ、私たちの行いが悪くても、イエス様は私たちを見放すことはありません。必ず、私たちを導こうとされます。なぜなら、イエス様は私たちを愛していて、善い行いができるように望まれているからです。私たちは、このイエス様の愛の導きを、心から受け入れていきたいものです。